えっ、知らなかった!!八朔祭の飾り幕の下絵を
書いたのは、あの、葛飾北斎?!
虎の飾り幕には「東陽画狂人北斎」
都留市で毎年9月に行われる伝統行事、八朔祭では豪華な飾幕が用いられますが、その一部はかの有名な葛飾北斎にゆかりがあるものなのです。屋台の飾幕には後幕、中幕、水引幕、泥幕という種類があり、その中の下町後幕「虎」の下絵は北斎によって描かれたといわれており、実際に「東陽画狂人北斎」という号が記されています。号とは画家や文人が本名の他につける名前のことです。この「画狂人北斎」という号は1806年頃まで用いられたとされており、「虎」はその頃に作られたものだと考えられます。
葛飾北斎の半生 何回か名前を変えて活動
1760年に生まれた葛飾北斎は、生涯を通じて20回以上も名前を変えて活動していたことが知られています。八朔祭で使われる後幕に記された「北斎」という号は1798年以降に用いられていたものです。したがって、「虎」は北斎が38歳から46歳くらいの時に描かれたものと考えられます。1811年以降は「戴斗(たいと)」、1820年以降は「為一(いいつ)」、1831年以降は「卍(まんじ)」という号を用いるなど、北斎は何度も改名を行い、その都度引っ越しを繰り返しました。
織物の街ならでは 彫刻ではなく飾り幕に力を入れた
八朔祭で使われる屋台や飾幕は1800年代前半に作られたといわれています。関東の山車は彫刻がメインのものが多いのですが、甲斐絹の町だったこともあり、谷村では幕が多く取り付けられていることが特徴です。
その飾幕には、金や銀を用いた糸や外国産の緋羅紗(ひらしゃ…緋色の厚手の紡毛織物のこと)、ビロード(ベルベット)などといった高価な材料が使われています。注目すべきは、刺繍の高度な技術と下絵が当時の有名な絵師によって描かれたものであるということです。刺繍の技術は現在では再現できないほど緻密で良質なものであり、当時の一流の職人によって作られたものと考えられます。飾幕の下絵は浮世絵師である葛飾北斎や藤原栄之(ふじわらえいし)らによって描かれました。このことから、谷村地域がかつて経済的にとても豊かだったことがうかがえます。
この飾り幕、ミュージアム都留で見れます
北斎によって下絵が描かれた飾幕は今も八朔祭りの屋台で用いられています。もちろん八朔祭りで見ることもできますが、ミュージアム都留でも常時展示が行われています。ミュージアム都留の学芸員である福島さんは「飾幕は雨風に触れるなどして劣化してしまうもので、それを防ぐために慎重に保存する必要があるのだ。」といいます。飾幕はとても大きく迫力のあるものなので、ぜひ自分の目で確かめてみてくださいね。