城下町発掘ニュース特集 ①

大名と城から紐解く
城下町のルーツ

都留を築いた大名、都留を広げた大名について徹底取材!
小山田氏と秋元氏、二人はどんなことをしたのか?

都留を作った、0→1のパイオニア!小山田氏!

現在の埼玉県秩父市に位置する、武蔵国秩父郡に勢力のあった豪族の秩父平氏の有重(ありしげ)という人物が、現在の東京都町田市に位置する武蔵国小山田庄に移り、小山田という氏を名乗り始めました。それが、ここで登場する「小山田氏」のはじまりだといわれています。 鎌倉時代の初期、元久2年(西暦1205年)に、現在の横浜市のあたりで、二俣川の合戦が勃発しました。その戦いで、秩父の一族は次々に没落し、小山田氏の一族もその中で没落してしまいました。そこから、小山田氏はここ、都留に逃れてきたのです。

郡内を盛り上げた敏腕プロデューサー!? 1→2にした男!秋元氏

秋元氏は、谷村が城下町として発展していくことに大きく貢献した人物の一人といえます。秋元泰朝が配置されてから、宝永2年(1705年)秋元喬知が川越に転封する70余年にわたり、秋元氏が谷村を支配していました。特に秋元泰朝は三代目将軍徳川家康の側近であり、常に将軍の護衛の任務を請け負うなど、将軍から厚い信頼を寄せられていました。秋元氏は建築の分野で功績を残してきました。江戸幕府と豊臣家の合戦で有名な大坂冬の陣の濠の埋め立てで徳川家の勝利を導き、家康の死後、家康を祀る日光東照宮の造営で総奉行を務め、谷村の藩士とともに現代に誇る日光東照宮を完成させることに注力しました。ここ都留でものちに産業と治水事業でまちを大きく発展させました。谷村での責務を果たした秋元氏は、現在の埼玉県川越市に移ります。川越藩主では、殖産政策においてその名を広めたといわれています。

城がないのにお城山と呼ばれる理由とは?勝山城は現代版シェルター&貯蔵庫だった

勝山城の他にもうひとつ「谷村城」というお城がありました。なぜこんなに近いところにお城が2つもあったのでしょう?当時、城はひとつは政治・経済などの仕事をするための建物、もうひとつはもしもの時に立て籠って身を守る要害城という風に役割が別れており、ふたつでひとつの城と考えられていたと言われています。谷村城は、現在でいう市役所のような行政を執り行う場所として使われていました。お城というと多くの人が天守閣をイメージすると思いますが、「連郭式」という本丸、二の丸、三の丸を並べて配置する、横に広がる平屋型の建て方が用いられました。現在の高尾町神社の辺りまで、お城だったと言われています。その方が、政治の仕事がしやすかったからです。

都留にはもう一つお城があった?!谷村城の存在

勝山城は、小山田氏が非常の際に立て篭もる要害城として築かれたと言われています。小山田氏が最初に建てた中津森の館は、残念なことに炎上し焼失してしまいます。また、郡内で勢力を伸ばしていた小山田氏は、中津森の館以上に交通路の確保・商品流通の発展・軍事面での新しい根拠地にふさわしい場所を探していました。この条件に当てはまったのが、谷村という地だったのです。

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