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記者が最も驚いた
城下町の歴史
なんとなく過ごしていた都留の街だけど、実は、意外とすごかった!
記者の取材で発掘された、お祭や織物産業のルーツまで
都留の驚くべき、特ダネニュースをお届け!
山梨は甲府と都留の二大都市だった!?郡内と国中という言葉のルーツ
約1300年前、今の山梨県全体を指して「甲斐国(かいのくに)」という呼び名が用いられていました。 1582年に武田氏が滅亡すると、甲斐国は織田・豊臣・徳川と支配が移り、 江戸幕府の下で甲府藩(国中)、谷村藩(郡内)が成立します。 「郡内」は東部地域を指す呼び方で、現在の都留市、大月市、上野原市、富士吉田市、 富士河口湖町、山中湖村、西桂町、鳴沢村、忍野村、丹波山村、小菅村、道志村を指します。 「国中」は甲府盆地を中心とする地域を指す呼び方で、現在の甲府市、山梨市、笛吹市、 甲州市、甲斐市、韮崎市、北杜市、南アルプス市、中央市、中巨摩郡昭和町、西八代郡市川三郷町、 南巨摩郡南部町、南巨摩郡身延町、南巨摩郡早川町、南巨摩郡富士川町です。 現在もこうした呼び方は使われており、山梨の人々の生活に定着しています。
コスパ良しが、江戸で大ブレイク!都留発祥「郡内織物」のルーツとは?
古くから都留は織物が作られてきました。そもそもこの頃は現代の私たちのように貨幣経済ではなく、農民から年貢で納めさせるお米がどれだけ取れるかが重要視されていました。郡内は山間の土地が多く稲作に適していなかったため、他のものでお金を稼ぐ必要がありました。そこで秋元氏は上州(群馬県)から絹機(きぬばた)を導入したり、農民に上質な絹糸を大量に生産できる養蚕を勧めました。それまでの郡内の織物は山繭で作られていたため、上質なものはできなかったのです。秋元氏は郡内織の効率と品質を高め、経済を活性化させました。また、自分の家臣団に内職で織物を織ることを勧めました。この家臣団たちの織物の技術が優れており、家臣団の技術が農民に伝わったことも、織物産業が発達した一因だと言われています。
秋の大感謝祭 八朔祭と城下町の関係
都留市では毎年9月1日に八朔祭りが行われます。これは都留市内にある四日市場の生出神社の例祭ということもあり、とても賑わいます。八朔祭りの特徴は大規模な大名行列が行われることや屋台の巡行にあり、毎年多くの人が訪れています。生出神社は農業の神様を祀る神社であるため、八朔祭りは五穀豊穣を願う農民たちの祭りだったと言われています。さらに、この大名行列は都留を治めていた秋元氏が、自分を偲んでそうするよう臣下に言ったことにも由来しています。秋元氏の善政に対して農民が感謝の気持ちをもって行っていたと言われています。
徳川家御用達のお茶を運ぶビッグプロジェクト「お茶壺道中」とは?
そもそもお茶壺道中とはいったい何なのでしょうか?江戸時代、幕府が将軍御用の宇治茶を茶壺に入れて江戸まで運ぶ行事のことを、通称「茶壺道中」、あるいは「宇治茶壺道中」といいます。その行列は、多い時には1000人にも及ぶ規模の大きいものにもなっていたようです。幕府が宇治茶の上納を命じる「宇治採茶師」をはじめて派遣したのは慶長18年(西暦1613年)とされ、制度化されるのは寛永10年(西暦1633年)のことです。この「宇治採茶師」というのが、いわゆる「茶壺道中」のことです。茶壺道中はとても権威の高いもので、茶壺が通行する際には、大名すらも駕籠を降りなければならず、街道沿いの村々には街道の掃除が命じられ、街道沿いの田畑の耕作が禁じられたほどです。
大名と城から紐解く
城下町のルーツ
都留の城下町を語る上で、最重要人物。都留を築いた大名、小山田氏。
都留を広げた大名、秋元氏について徹底取材!
都留のルーツを作ったと言っても過言ではない二人に迫る!!
都留を作った、0→1のパイオニア!小山田氏!
現在の埼玉県秩父市に位置する、武蔵国秩父郡に勢力のあった豪族の秩父平氏の有重(ありしげ)という人物が、現在の東京都町田市に位置する武蔵国小山田庄に移り、小山田という氏を名乗り始めました。それが、ここで登場する「小山田氏」のはじまりだといわれています。 鎌倉時代の初期、元久2年(西暦1205年)に、現在の横浜市のあたりで、二俣川の合戦が勃発しました。その戦いで、秩父の一族は次々に没落し、小山田氏の一族もその中で没落してしまいました。そこから、小山田氏はここ、都留に逃れてきたのです。
郡内を盛り上げた敏腕プロデューサー!? 1→2にした男!秋元氏
秋元氏は、谷村が城下町として発展していくことに大きく貢献した人物の一人といえます。秋元泰朝が配置されてから、宝永2年(1705年)秋元喬知が川越に転封する70余年にわたり、秋元氏が谷村を支配していました。特に秋元泰朝は三代目将軍徳川家康の側近であり、常に将軍の護衛の任務を請け負うなど、将軍から厚い信頼を寄せられていました。秋元氏は建築の分野で功績を残してきました。江戸幕府と豊臣家の合戦で有名な大坂冬の陣の濠の埋め立てで徳川家の勝利を導き、家康の死後、家康を祀る日光東照宮の造営で総奉行を務め、谷村の藩士とともに現代に誇る日光東照宮を完成させることに注力しました。ここ都留でものちに産業と治水事業でまちを大きく発展させました。谷村での責務を果たした秋元氏は、現在の埼玉県川越市に移ります。川越藩主では、殖産政策においてその名を広めたといわれています。
城がないのにお城山と呼ばれる理由とは?勝山城は現代版シェルター&貯蔵庫だった
勝山城の他にもうひとつ「谷村城」というお城がありました。なぜこんなに近いところにお城が2つもあったのでしょう?当時、城はひとつは政治・経済などの仕事をするための建物、もうひとつはもしもの時に立て籠って身を守る要害城という風に役割が別れており、ふたつでひとつの城と考えられていたと言われています。谷村城は、現在でいう市役所のような行政を執り行う場所として使われていました。お城というと多くの人が天守閣をイメージすると思いますが、「連郭式」という本丸、二の丸、三の丸を並べて配置する、横に広がる平屋型の建て方が用いられました。現在の高尾町神社の辺りまで、お城だったと言われています。その方が、政治の仕事がしやすかったからです。