城下町発掘ニュース特集 ②

都留に劇場っ??エンタメ発信基地「谷村座」の歴史を徹底調査

Written byリサ

あの美空ひばりも来た?!栄えていた谷村座の歴史 

 谷村座は東京京橋の新富町にある「新富座」を模した建物で、明治10年に開業された古い歴史をもつものです。新築記念のこけら落としは歌舞伎一座河原崎権十郎一行を招いて盛大に行われたと伝えられていて、新装された谷村座を一目見ようとする人々で当時のまちは大賑わいをみせたそうです。

 大正期は社会主義思想や佛教についての講演会が開催され、戦時中には県下で初めての東京歌舞伎座「菊五郎劇団」がやってきました。このように大変栄えていた谷村座ですが、昭和二十四年の谷村町大火により一度焼失してしまいます。

 しかし、谷村座はここで終わったわけではありません。旧谷村座を大型化して新築しようとする動きがおこり、戦後の物資不足や混乱のなか、なんとか建設することができたのです。新谷村座は映画を主体として演劇演芸など行う毎日公開常設劇場として生まれ変わりました。戦後、この新谷村座では歌謡曲公演があり、あの美空ひばりも出演しました。また、時代とともに映画の魅力はますます向上していき、その頃には観客動員数も最高潮に達していました。

一流の東京歌舞伎は甲府より先に谷村で

 先ほども少し触れましたが、谷村座では昭和十六年頃に「菊五郎劇団」の上演がありました。当時の県下において初めての東京歌舞伎座からの公演ということもあり、興行界では大きな話題に。昭和二十二年には沢村宗十郎と河原崎権十郎一座の合同公演、翌年昭和二十三年には市川猿之介一座の「義経千本桜」「黒塚」公演が行われていました。このような一流と呼ばれている東京歌舞伎の県内での公演は、実は甲府よりも谷村座で行われていたのです。

 ではなぜこの地方にやって来たのか。それは、戦後の食糧難にあたって、この地のお米や新鮮な野菜たちは有名人たちからしても大変魅力的なものだったからです。地方にいながらも身近で役者たちを見ることができたのは、人々にとっても役者にとっても幸せなことであり多くの人に感動と喜びを与えていました。

焼失した谷村座の復興

 谷村座は谷村の大火によって一度焼失してしまい、その後新装されたことは先ほども触れました。実はこの谷村座の復興には人々の努力と技術が集結していたのです。

 新谷村座は屋内に柱を使わないドーム型の建築で、用いる材料は富士の唐松を主体としていました。今では当たり前のように使われている鉄骨材ですが、この時代は今のように使うことはできず、まして娯楽のための施設建設なんてもってのほか、という社会状況だったためあの手この手で物資を調達しなくてはなりませんでした。

 東京の大手会社から派遣されてきた鳶職は現場に泊まり込みで作業を進めました。この様子を見ようと人々が大勢集まり、鳶職たちの手際のよい離れ業に拍手と歓声を飛ばしていました。

 旧谷村座の客席は人が数人座れるほどのスペースを四角形に区切って作っていましたが、新谷村座では個々の椅子席へと変化しました。座席は全て合わせると800、立ち見席も合わせると1200人収容可能な規模へと変貌を遂げました。この人数を見るとかなり大規模な建物であったことがよく分かります。

一度は失くなってしまった谷村座ですが、このように多くの人の力が合わさって生まれ変わったのです。

ARで再現 「谷村座」を見に行こう!!

つるのルーツの公式LINEにはARが搭載!市内の3スポットをARで再現しています。

実際に現地まで行くと、ARが立ち上がるようになっています。この「谷村座」があったのは現在の「ことぶき」さんの場所!

ぜひ当時の雰囲気を味わってみてくださいね。

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