【ふるさと時代祭り直前特集!】下天神町が発祥! 大名行列の歴史を深掘り!
導入
都留市には「八朔祭」という代表的なお祭りがあります。八朔祭は郡内三大祭りの1つに数えられており、歴史ある「大名行列」が特徴的で、祭りを壮大に盛り上げています。
今回はこの大名行列について、大名行列保存会会長である鈴木さんにお話を伺うとともに、鈴木さん自身が出版に携わった『都留市市下天神町大名行列保存資料集』を読みながら、大名行列の歴史や今と昔の違いについてもお伝えしていきます!
八朔祭・大名行列の歴史 概略
大名行列の歴史は江戸時代から下天神町に伝わり、現在に至っています。その起源は当時谷村を治めていた秋元喬知(あきもと たかとも)と呼ばれる大名が川越に領地を移動させる際、下天神町に衣装などの大名行列の道具一式を置き土産にしたことにあるとされています。それらの道具を使って自身を偲んで欲しいと下天神町にいた臣下に述べました。それを受け、秋元氏の子どもが生まれたという所縁をもつ生出(おいで)神社の宮司さんに依頼され、五穀豊穣を願う八朔祭にて大名行列を構成し、運営していました。
つまり元々八朔祭の大名行列というのは都留市の大名行列というより、下天神町という地域の大名行列だったというわけです。しかし戦時中になるとその頃には大名行列も途絶えていました。ですが戦後復興期の中、下天神町の人々は町おこしとして大名行列を復活させることを決意したのです。
昔はここが違った!① 行列に姫がいなかった?!
今では姫役というのは殿様役、赤熊(長い毛槍)と共に行列の花形な存在ともいえるでしょう。しかし八朔祭の大名行列には元々姫役はおらず、途中で追加された役柄であることが分かっています。また、その姫役の選び方も今と昔で異なる点があります。
現在は姫役を選ぶ際に公募がされていますが、戦後は日本中でミスコンクールが流行しており、その流れに乗って都留市では大名行列の姫役になれるという条件で「ミス都留」の選考がされていました。市内の商店で買い物をすると投票券が渡され、その投票券に薦めたい女性の名前を記入し、投票箱に入れることで姫役を選んでいました。この選考は大変人気であり、下天神町以外の人々が祭りに参入するきっかけになるほか、都留市商業の活性化に大きく貢献しました。
昔はここが違った!② 道具は手作りだった!?
大名行列で使われている道具についても違うところがあります。戦後に大名行列を復活させようとした下天神町の人々にとって、まず問題となったのは道具をどのようにして揃えるかということです。不幸にも、火災によって大名行列道具を失ってしまったためです。現代においては刀やかつら、衣装などの道具は、お店で購入して揃えることが可能です。しかし資源や資金が十分でなかった戦後において、そのような道具を揃えることは非常に困難なことでした。
人々は、周りから借りられるものはできるだけ借用したり、代用品を使用したり、手作りしたりと、試行錯誤を繰り返しながら、道具を揃えようと試みていました。例えば陣笠と呼ばれるかぶり物を作るにあたって、まず段ボールを切り抜くところから始まり、トタン屋根の塗料に使われるコールタールをその上から塗り、防水加工をしていたといいます。つまり単純に作るのではなく、機能性にも気をつけながら制作をしていたのです。戦時中に使われた武器を解体したこともあったようです。このような努力を続けることで、下天神町の人々は多くの道具を完成させることができました。
鈴木さん 昔の祭りの思い出
鈴木さんから大名行列の話を聞くにあたり、昔の八朔祭の様子についてもお聞きすることができました。昔の八朔祭では今より遙かに多くの露店が並んでおり、中でもバナナのたたき売りのお店が、鈴木さんにとって印象深かったようです。今では考えられませんが、当時の人にとってバナナというのは高級品であり、お祭りのような特別な行事にだけ買ってもらえる食べ物でした。独特の口上を述べながら客を引き寄せ、バナナを売買する様子がとても好きだったと言います。しかし今ではたたき売りのような口上などを使った活発な商売というのが減ってきているため、少し寂しさを感じているともおっしゃっていました。商人がお客を口上で引きつけ、言葉巧みに売る様子は、ある種コミュニケーションのひとつだと鈴木さんは考えています。
編集後記(ライターの感想)
この記事を執筆するにあたって都留市の下天神町大名行列の奥深さを知ることができ、とても勉強になりました。現在あたりまえのように行われている大名行列が、下天神町の人々の多大なる努力の賜物であるということを忘れてはいけないと感じました。また、今回鈴木さんにお話を伺う中で、鈴木さんをはじめとする大名行列保存会の皆様の大名行列に対する情熱や思いが伝わり、このような貴重なお話を聞けて良かったと心から思います。