城下町発掘ニュース特集 ①
城がないのにお城山と呼ばれる理由とは?
勝山城は現代版シェルター&貯蔵庫だった
Written byはーちゃん
小山田氏が築いた
勝山城は、小山田氏が非常の時に立て篭もる要害城として築かれたと言われています。小山田氏が最初に建てた中津森の館は、残念なことに炎上し焼失してしまいます。
また、郡内で勢力を伸ばしていた小山田氏は、中津森の館以上に交通路の確保・商品流通の発展・軍事面での新しい根拠地にふさわしい場所を探していました。この条件に当てはまったのが、谷村という地だったのです。
秋元時代 茶蔵
小山田氏滅亡後都留郡は目まぐるしく勢力が入れ替わり、それに伴い勝山城の城主も鳥居氏→加藤氏→浅野氏と変わってきました。
転機が訪れたのは、浅野氏の次に赴任した秋元氏がきた時です。秋元氏は徳川の側近で、幕府から絶大な信頼を寄せられている人物でした。そうした背景もあり、京都の宇治から江戸まで将軍様のお茶葉を運ぶ「茶壺道中」の道中の茶壷を保管する茶蔵として、勝山城は使われるようになりました。それから茶壺蔵や焔硝(火薬)庫としての機能も担うようになりました。
秋元氏がいなくなってから、都留は幕府の土地である「天領」になり、領主がいなくなってしまったので勝山城は取り壊されてしまいました。これが 勝山城には「跡」しかない理由なのです。
現在はお城山と呼ばれ愛される
現在では、勝山城跡地は「お城山」と言ってわからない市民は少ないほど、地元の人々に愛される山として浸透しています。
一度でもお城山に登ったことのある人なら、あのかなりの急斜と見晴らしの良さに「だから要害城だったのか!」と納得がいったはずです。
毎年お城山には桜が連なって咲き乱れ、頂上からは富士山も見えると、なんだかおめでたい気分になりますよね。今年はその風景を、谷村が城下町だった歴史に思いを馳せながら登ってみると、また違う見え方がしてきたり…?するかもしれません。