都留にはもう一つお城があった?!谷村城の存在
谷村城跡地は現市役所と小学校の間!
勝山城の他にもうひとつ「谷村城」というお城がありました。なぜこんなに近いところにお城が2つもあったのでしょう?
当時、城はひとつは政治・経済などの仕事をするための建物、もうひとつはもしもの時に立て籠って身を守る要害城という風に役割が別れており、ふたつでひとつの城と考えられていたと言われています。
谷村城は、現在でいう市役所のような行政を執り行う場所として使われていました。お城というと多くの人が天守閣をイメージすると思いますが、「連郭式」という本丸、二の丸、三の丸を並べて配置する、横に広がる平屋型の建て方が用いられました。現在の谷村第一小学校から高尾町神社の辺りまで、お城だったと言われています。その方が、政治の仕事がしやすかったからです。
秋元氏が谷村館から谷村城へ
谷村城の始まりは、小山田氏の居館である谷村館が始まりだとされていますが、その後歴代の城主によって複数回改修が行われたと考えられており、館城から平城的形態に改修したのは鳥居元忠の時代である可能性が高いとされています。
秋元氏の時代は戦国乱世の時代と異なり平和だったので、治水事業や織物産業の発展に力が入れられていました。そのため、谷村城は政治・経済の中心として重要視されました。
現在でも谷村駅前を流れる家中川は、谷村城の内・外堀としても利用されました。また、秋元は円通院・泰安寺を城下内に移転・建設し、武家屋敷・町人屋敷を整備し、城下町としての繁栄を計画しました。今でも、勝山城・谷村第一小学校をぐるっと囲むようにお寺が集中している理由はこの時代にあります。
谷村藩の廃藩と共に 廃城に
宝永元年(1704)に秋元喬知が転封で川越へ行くと、谷村藩は代官の預地支配となり、廃藩となってしまいます。領主がいなくなった勝山城・谷村城はその時取り壊されてしまったため、現在では全くお城が残っていないのです。
正徳3年(1713)に谷村(都留市)は江戸幕府が直接収める「天領」となりました。家臣団の武家屋敷は畑になってしまいましたが、絹織物を買いにくる商人が支店を出したりしていて、城下町のころと変わらず郡内の中心として栄えていたそうです。