城下町発掘ニュース特集 ①

郡内を盛り上げた敏腕プロデューサー!?
1→2にした男!秋元氏

Written byまい

群馬からやって来た秋元氏 秋元氏ってどんな人?

 秋元氏は、谷村が城下町として発展していくことに大きく貢献した人物の一人といえます。秋元泰朝が配置されてから、宝永2年(1705年)秋元喬知が川越に転封する70余年にわたり、秋元氏が谷村を支配していました。

 特に秋元泰朝は初代将軍徳川家康の側近であり、常に将軍の護衛の任務を請け負うなど、将軍から厚い信頼を寄せられていました。秋元氏は主に土木・建築の分野で功績を残してきました。徳川家と豊臣家の合戦で有名な大坂城の濠の埋め立てや、家康の死後、家康を祀る日光東照宮の造営で総奉行を務め、谷村の藩士とともに日光東照宮を完成させることに注力しました。ここ都留でものちに産業と治水事業でまちを大きく発展させました。

 谷村での責務を果たした秋元氏は、現在の埼玉県川越市に移ります。川越藩主時代には、殖産政策においてその名を広めたといわれています。

秋元氏って都留で何をしたの?

 秋元泰朝は徳川家康の側近であったことから、その信頼に足る聡明さを評価され、寛永10年(1633年)に上州総社(いまの群馬県前橋市)から谷村に移り、谷村の発展に身を注ぎました。その後、宝永元年(1704年)にわたり、秋元泰朝、富朝、喬知の三代にわたって谷村を治めました。中でも秋元喬知は秋元家で最初に老中になった人物です。

 秋元氏は農業用水や生活用水として現在まで利用されてきた谷村大堰(家中川)の整備や、養蚕・絹織物産業の発展など、数々の功績を収めています。

 現在でも都留で名が知られている「郡内織」などの織物産業は、実は秋元氏が谷村に広めた特産品だったのです。

養蚕・郡内織で都留を発展!

 谷村地域は平地が少ないことと、気候が寒冷であったことから、稲作が十分に行なえませんでした。そこで代わりに発展していったのが養蚕・絹織物生産です。後に特産品となるこの養蚕・絹織物産業は、江戸時代初期、藩主の秋元氏が前の領地である上州総社、現在の群馬県前橋市から技術を持ち込んだとされています。

 郡内地方で生産された絹織物を「郡内織」といい、そのなかで縞模様の入ったものをとくに「郡内縞」と呼んでいました。江戸時代中期には、江戸で縞模様の織物が流行し、郡内の特産品の一つとして、織物が江戸に売られました。こうして秋元氏は「郡内織」を郡内地方の特産品のひとつとして発展させていったのです。

治水事業でも手腕を発揮!生活のインフラの整備

 家中川の用水を利用することは、農業をはじめとした産業を発展させるために必要不可欠でした。特に、用水を活用して美しく染められた絹糸で作られた郡内縞などは、特産品として江戸・京都・大阪に売られるようになり、織物は郡内地方の経済の基盤となっていたのです。こうした各種産業を支えるため、秋元氏は治水事業に力を注ぎます。もともと街中に水が流れていなかったところに、外部から人工的に水を供給する灌漑の仕組みを用い、家中川を作りました。家中川の水は市民の生活に欠かせないものとなりました。

 これにより、下流地域古川渡村までの農業生産高が増加したという記録が残されています。以後、上谷村・下谷村・四日市場村・古川渡村の生活用水・農業用水、あるいは谷村城の堀水などとして用いられてきました。

 このように、秋元氏が治水事業に尽力したことにより、郡内地方の特産品が守られたことで、経済・生活の基盤が構築されていったのです。

豆知識

おつるさん
お話にも挙がっている家中川とは、現在でも都留の商店街沿いを流れている川のことを指します。以前は農業用水や飲料水などの生活を支える水として利用されていましたが、近年では水力発電としても市民の生活を支えています。
「元気くん」という小発電所をご存じでしょうか。「元気くん1号」は都留市役所前、「元気くん2号」はさらに下流の旧三の丸発電所が立てられていた場所付近にあります。特に「元気くん3号」は最大の発電量を占め、谷村第一小学校の隣に位置しています。
谷村町駅附近に位置する城南公園前には、元気に泳ぐ鯉や亀なども見られます。ぜひお散歩の際に訪れてみてください。

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