都留を作った、0→1のパイオニア!小山田氏!
1532年 谷村の地を選んだ小山田氏
武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市)に勢力のあった豪族の秩父平氏の有重(ありしげ)という人物が、現在の東京都町田市に位置する武蔵国小山田庄に移り、小山田という名氏を名乗り始めました。それが、ここで登場する「小山田氏」のはじまりだといわれています。
鎌倉時代の初期、元久2年(西暦1205年)に、現在の横浜市のあたりで、二俣川の合戦が勃発しました。その戦いで、秩父平氏の一族は次々に没落し、小山田氏の一族もその中で没落してしまいました。そこから、小山田氏はここ都留に逃れてきた、というのが一説です。
かつて谷村は郡内の中心地だった?
小山田氏は、都留に逃れてきたその当初、現在の宝地区にある中津森に館を建てました。しかし、その館は火事により燃えてしまいます。その際、当時の当主であった小山田信有は、谷村に新しい館を建てました。
武将が拠点となる場所を考える際、防衛と政治のしやすさの観点から、山に囲まれた平地が選ばれることがあります。谷村は山に挟まれた谷あいという地形であり、いざという時の山城は桂川が自然の堀の役割を果たし、守りやすい土地だったこともあり、谷村を選んだのではないかといわれています。
小山田氏は何代にもわたり、現在の都留市・富士吉田市をはじめとし、大月市猿橋あたりまでを支配していたとされています。
戦国武将「小山田氏」谷村に本拠を構える!
承久3年(西暦1221年)の承久の乱に、小山田太郎という人物が、鎌倉幕府の軍勢に従って出軍をしています。小山田氏は、このころにはすでに郡内地方の中で勢力を持ちはじめていたと言われています。
郡内地方には、小山田氏の他にも、上野原市や河口湖町など、それぞれの地域を治めている豪族たちがいました。その豪族たちの中には、小山田氏の家臣だった者もいれば、武田氏の家臣となっていた者もいたと言われています。
明応8年(西暦1499年)に、小山田氏の信長という人物が、現在の甲州市塩山にある、向岳寺にあたる向岳庵に対して、現在の都留市田原に位置する、田原郷にある寺の土地所領の承認(安堵)もしていたという記録も残っています。小山田氏には安堵状が発行され、郡内に対して一定の領主権を持っていました。
小山田氏はスター軍団「武田二十四将」の1人だった!
永正5年(西暦1508年)に、小山田氏は武田家の跡目争いとなった勝山合戦に参戦しました。この戦は郡内地方にも飛び火し、小山田氏は大きな損害を被りましたが、武田氏と融和し、形式同盟という形が生まれたのです。その結果、小山田氏は武田家の一軍としての立ち位置として、郡内地域での一部独立的権限をもつ領主となりました。
小山田氏の人間の中で、特に信茂という人物は、武田信玄、勝頼の二代と共に闘った武将で、「武田二十四将」の一人として知られています。信茂は、他団との外交を前面に立って担っていたと言われています。