城下町発掘ニュース特集 ②

「奥の細道」の誕生に影響を与えた都留の滞在!?松尾芭蕉と都留の意外な関係

Written by都留文科大学 マヤ

どうして松尾芭蕉は都留に寄ったの?

どうして松尾芭蕉は都留に寄ったの? 松尾芭蕉が都留に立ち寄ったのは、芭蕉の俳諧の弟子である高山伝衛門繁文(高山麋塒)という人物に招かれたからと言われています。

 天和2年(1682)、当時江戸に住んでいた松尾芭蕉は、そこで起こった大火事によって家が焼けてなくなってしまいました。
そこで芭蕉に声をかけたのが、俳諧の弟子で、谷村藩主秋元家の国家老(江戸時代、大名が参勤交代などで留守のときに、代わりに政治をになっていた役職のこと)だった、高山伝衛門繁文(高山麋塒)です。この人物によって芭蕉は、火事の翌年、都留に招かれたのです。この都留への旅が、のちに「野ざらし紀行」や「奥の細道」の俳諧の旅のきっかけになったと言われています。

松尾芭蕉は都留で何をしていたの?

松尾芭蕉は都留で何をしていたの?  芭蕉は都留にいる間、どこに滞在していたのでしょう。

 今の、谷村にある都留市ふるさと会館の近くに、高山伝衛門繁文(高山麋塒)の家系が持っていた敷地の隅に小さな建物があったといわれています。そこに芭蕉は約5ヶ月間滞在し、多くの有名な句を詠んだとされています。この建物は、「桃林軒」と名付けられています。

 元々の「桃林軒」は取り壊されてしまいましたが、2004年にその建物は復元されており、今も芭蕉のあしあとを体感することができます。

芭蕉も見た田原の滝

芭蕉も見た田原の滝  富士急行線の十日市場駅から歩いて約5分のところに、「田原の滝」という大きな滝があります。この滝は、都留市の名勝にも指定されています。都留での滞在中、芭蕉はここにも訪れたとされています。富士山の雪どけで増水した桂川の清流に、踊る魚とともに春の訪れを喜ぶ心情を句に詠んだ景勝地とされていて、今は滝を正面に望む場所に、句碑と句を詠む芭蕉の石像も建てられています。

また、現在は富士急行線の列車とのコントラストにより、鉄道写真愛好家のフォトスポットとしても人気で、芭蕉も感嘆した四季折々の情景とともに、鉄道の走る風景も楽しむことができます。

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