城下町発掘ニュース特集 ②

~都留商家資料館
眠る過去の秘密~

Written byしん・やない

都留興譲館高校の生徒がインタビュー

都留興譲館高校の生徒がインタビュー 今回の記事は都留興譲館高校・電子工学科の生徒が調べてまとめました。

都留興譲館高校では、毎年3年生が課題実習で地元企業の仕事体験をしています。今年はつるのルーツを運営する都留市内のIT企業、C-table株式会社のWebライターを体験しました。
今回は、都留市の織物の歴史について詳しく知れると聞き、「都留市商家資料館」に高校生がインタビューにいきました。

生徒が館長に施設の見どころや、都留にまつわる織物の歴史を聞いてきました!

都留市商家資料館って?

都留市商家資料館って? 大正10年(1921年)に建てられた絹問屋の仁科家を改装した、織物にまつわる資料館です。郡内織に関する資料や実物の織物、大正〜昭和の暮らしの道具が展示されています。
 都留市及び大月市や富士吉田市までの郡内一帯は織物の産地とし
て有名でしたが、谷村は「問屋」といわれる卸業者がいたことが特徴で、郡内で作られた織物のほとんどが問屋によって店舗へと卸されました。
 検品もこの仁科家で行われていました。
城下町つる江戸時代の様子が、郡内織に関する資料からわかってきます。

資料館の見どころは?

資料館の見どころは?  郡内織は江戸時代から人気で、江戸の大店(おおだな)現在で言う百貨店が買い付け支店を作るほどでした。中でも有名なのは「越後屋」、現在の三越百貨店です。
 時代が進んでも海外との取引もあるほどでした。

 大正時代、そんな一流の商人と商談するために作られたのが、こちらの応接間でした。当時最先端だった西洋風の作りが施され、天井にはシャンデリアがあったそうです!
 他にも、階段が表からも裏からでも登れる仕様になっていて、来客用と家族用に分かれていたり、応接間には立派な仏壇があったことが印象に残っています。
階段が二つもあるなんて今では考えられないですよね??!

【江戸時代】郡内織にはどんな柄があったの?

【江戸時代】郡内織にはどんな柄があったの? 郡内縞(郡内嶋)という柄があり、具体的には白地やもよう地、玉むし地などがあったそうです。また綾があるものは「八反掛け」、黒地に白い緯糸が一筋、三分ばかり浮いたものを「こまがら」といわれていました。
白郡内とは、つやがよく、亀甲・菱・綾・杉などの紋織有りといったものです。
織色郡内は色は色々、菱・綾 谷村で織られるものが上品だったようです。また、海気に似ていたので「郡内海気」と言われていました。
郡内織には特徴的な柄がありすごいと感じました!写真は「郡内縞」の着物です。

【江戸時代】郡内織の売上はどのくらいあったの?

【江戸時代】郡内織の売上はどのくらいあったの? 郡内は経済を絹織物に依存していたそうです。「渡世所」(安永4年(1775))によると、郡内から一年間に織り出す絹疋数は七万疋とされたそうです。また販売額は5万8千両を売り上げたようです。
※中・後期の米価で換算すると単純計算で5万8千両→29億円程度
現在のお金で29億円の価値があるなんて驚きました。

【江戸時代】どんな人が織物を作っていたの?

【江戸時代】どんな人が織物を作っていたの? 主に女性が織っていたそうです。大幡の安田家では女性だけではなく、秦公人に当たる女性も織っていたようです。3,4人程度の女性によって製糸、絹織が行われていたそうです。生地を織るには手織機が使用されました。絹一疋(=22.6~25m)織るのに5〜6日かかったそうです。

またその風潮は昭和になっても続いていたそうで、朝6時ごろから夜9時ごろまで働くことはしょっちゅうだったようです。女性ばかり仕事をしていて大変だと思いました。

【昭和時代】どうして織物産業は少なくなってしまったの?

中国など海外製の織物が安価で丈夫な織物を生産し始めたため、日本の政府が織物を作る手織機を壊すと補助金が出る政策を押し進めたそうです。よって次第に都留の織物産業は少なくなってしまったそうです。

そんな中、ほぐし織など都留ならではの織物産業を続けている事業者さんも都留市にはいらっしゃいます。
今一度、都留市の郡内織の商品について知ってほしいなと思いました。

感想

しん:初めて都留商家資料館にいったけど織物についての歴史や詳細を知ることができました。特に印象に残っていることは都留の織物は政府が決めたことによって少なくなっていったということです。

やない:昔の都留市は織物が盛んで現在だと29億円稼いでいたということを知りとても繁盛していたのだと思いました。

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