創業100年越えの和菓子店「すがや」さんに、
都留の時代の移り変わりを聞いてみました
創業100年越えだったら都留の歴史にも詳しいのでは?!
「すがや」さんは明治25年創業の老舗和菓子店です。今回のインタビューでは、すがやさんの創業からの歴史をうかがいたいと思います。また、創業当時から今も変わらずこの谷村のまちにお店を構え、谷村をずっと見守ってきたすがやさんだからこそ分かる谷村の歴史についても訊ねていきます。実は創業当時は和菓子店ではなかった?長く地元の人に愛される理由は?さまざまな角度からすがやさん、そして谷村のまちの歴史を解明していきます。谷村のまちや人々が変わっても、変わらず多くの人々に愛される。そんなすがやさんへのインタビューです。
創業は明治25年?!現在の店舗では100年の歴史を持つ老舗和菓子屋
リサ:創業当時の様子を教えてください。
すがや:創業が明治25年なのですが、当時の建物は今と少し離れた別の場所にありました。そこから二回ほど移転をして今のこの場所になっています。場所だけでなく、当時は売っているものも今とは異なっていたんですよ。
リサ:売っているものが違うということは、創業当時は和菓子屋さんではなかったということですか?
すがや:実は、創業当時は万屋だったんです。和菓子と一緒に豆菓子やせんべいも量り売りで売ってましたよ。昭和に入ってからは、和菓子以外にもせんべいやあめ、ビスケットやポテトチップスにアイス、牛乳なんかも販売していて駄菓子屋のような感じでしたね。
リサ:えーー?!驚きです!!
いつから和菓子屋さんになったの?
リサ:当時は和菓子以外にもたくさんの商品が売られていたんですね!では、いつ頃から和菓子のみの営業になったのでしょうか?
すがや:3代前の曾祖父が亡くなって、その葬儀の際に店舗を改装したのですが、ちょうどその頃近くにセブンイレブンができたんです。コンビニができたことによって、今まで売っていたポテトチップスやアイスなどの仕入れてきたお菓子が売れなくなってしまったんです。そのことがきっかけです。
リサ:コンビニができたことによる影響だったんですね。お話に出てきたひいおじいさんはどのような方だったのでしょうか?
すがや:こだわりの強い人でしたね。戦争の影響で砂糖がなく、世の中にはサッカリンという人工甘味料も出回りましたが、わざわざ上野の闇市で砂糖を入手してくるような人でした。
商店街での商売を通して谷村のまちの移り変わりを見てきた
リサ:当時の谷村のまちはどのくらい栄えていたのでしょうか?
すがや:パン屋、喫茶店、定食屋などがあって、服屋や酒屋、銭湯なんかもありましたね。当時は映画館まであったんですよ。谷村になんでも揃ってたから外に出る必要がないくらいでした。実際、私自身当時は谷村から出たことがなかったです。
リサ:お店が充実していて、なんでもあったんですね。まちの人たちや風景はどうでしたか?
すがや:バスで買い物に来る人が多かったです。このあたりに住んでいる人だけでなく、織物関係の業者も多く訪れていました。風景だと、染物屋の影響で家中川にはいつもカラフルな水が流れていましたね。
すがやの昔のお客さんはどんな人?
リサ:そんな栄えていた谷村ですが、時代とともにどのように変わっていったのでしょうか?
すがや:やはり、コンビニやスーパーができるようになってから、専門店がみるみる減っていきましたね。跡継ぎの問題もあり、現在のようなシャッター街になってしまいました。
リサ:そうなんですね。では、谷村のまちが現在の様子へと変わっていくとともに、訪れるお客さんには何か変化がありましたか?
すがや:昔はほとんど地元のお客さんでした。織物を売りに問屋を訪れる際の手土産として買う方が多かったです。そこから口コミでどんどんと広まっていって、現在では県外からのお客さんも多くいらっしゃいますし、変わらず地元の方にも来ていただいています。
リサ:今も昔も地元の方から愛されているんですね。
城下町の残り香を感じる織物と和菓子との接点
リサ:創業当時のすがやさんのお菓子は谷村の人々にとってどのような存在だったのですか?織物の歴史と何か関わりはあるのでしょうか?
すがや:先ほども言ったように、織物問屋の手土産として親しまれていました。今でこそうちで和菓子を食べることはありますけど、当時は和菓子は贅沢で高級なものだったので、普段食べるということは少なかったですね。谷村のまちは織物で栄えていたので、高級品とされていた和菓子を買えるような豊かな家もありましたが、それでも手土産としての側面が強かったです。リーマンショックの時なんかは、うちのお菓子を持っていくと商談が成功するから“本気の手みやげ”なんて言って、買っていく人が多かったです。その時は大盛況でしたね。
看板商品の「八端最中」も郡内織の中でもこの辺で盛んに作られていた「八端織」が名前の由来になっています。八端最中は今も手作業でひとつひとつ餡を詰めています。
創業当時から受け継ぐ味、こだわりの餡
リサ:創業当時から変わっていないこだわりはありますか?
すがや:創業当時から餡子の作り方は受け継いでいます。「八端最中」と「絹羊羹」は創業時からずっとある商品で、どちらもこし餡が大事なお菓子です。
私が現在5代目で、23歳からこの道を継いでいます。
餡子の作り方は、季節や毎日の温度・湿度で変わります。「いいものを少量で作りたい」という思いがあるので、こしあんは1日、つぶあんは3、4日かけて作っています。
道具も先代が使っていたものと変わらないものを使い、餡を濾す網は馬の毛から作られたもの。もうこれを作る職人さんも減ってきちゃって、全国的に見てもこういう道具を使っているのは少ないんじゃないかな。
当店の売りは餡子だと思っています。人気商品の「かりんとう饅頭」は比較的新しい商品ですが、伝統のこし餡に合うお菓子は何かと考え、生まれた商品です。これからも、伝統は残しつつ、どうやったら新しいものに取り入れ残していけるか、チャレンジしていきたいですね。
リサ:すがやさん、ありがとうございました!
編集後記
谷村の町をずっと見てきたすがやさんの観点から見る歴史の移り変わりを知れてとても面白かったです!
今でも愛されている数々の和菓子は、都留の歴史とともにずっと受け継がれてきた味だと思うと、より感慨深くなりました。
みなさんもぜひ、改めてすがやさんの和菓子を味わってみてください!