つるっことして城下町都留の歴史を後世に伝えたい!須藤さん&酒井さんの思い
「ぜひ取材に来てください!」と連絡が入り、実現したインタビュー
今回取材した酒井さん&須藤さんは以前都留市出身の姉妹。須藤さんの嫁ぎ先が、都留で伝統のある織物業を営まれていた「藤鉱」さんで、酒井さんはそこに弟子入りしました。つるのルーツを見てくださっていて、「是非一度うちに取材に来てください!昔の都留の話や織物のことを話したいです」と言ってくださり、今回のインタビューが実現しました。
マヤ:そもそも、なぜインタビューのお声掛けをしてくださったのですか?
須藤さん:(現在は富士吉田市に住んでいらっしゃいますが)もともと都留に思いをはせるようになったきっかけというのが、談合坂のSAに置いてあった都留のパンフレットのメッセージに「水がきれい、空気がきれい、自然が豊か…都留はそんなところです」っていう感じのことしか書いていなくて、これじゃ他のところと一緒じゃん!と思って(笑)。どうして城下町だったことを前面に出さないんだろう?と思ったんですよ。なので、都留市が城下町だった歴史を伝えられる機会があればご協力したいなって。
マヤ:まさに今のつるのルーツの取り組みと繋がったのですね!嬉しいです。
須藤さんは谷村の商店街が栄えていた頃を思い出し、自作の地図を書いてお話ししてくださいました。
栄えていた商店街
マヤ:昔の都留の様子を教えていただけますか?
須藤さん:思い出深いのは1930年ごろ。小学生時代ですね。
昔はお肉屋さんや八百屋さん、お菓子屋さんといった、専門店がずらっと並んでいましたね。むかしは3つも映画館がこの商店街にあったんですよ。
マヤ:え!この範囲に映画館が3つもあったんですね。どんな違いがあったのですか?
須藤さん:上映している映画の種類が違っていました。若松館は家族向けのものを上映していたと思います。それで、谷村座はアクションものが多かったです。また、現在の山梨信用金庫のところに大手劇場がありました。大手劇場は洋画の放映がメインでモダンな印象でした。
劇場の幕間で音楽を流していて、それが風に乗って商店街に響いていたのを今でも覚えています。音楽が流れてきたら、もうすぐ映画が始まる!ってワクワクしていました。
マヤ:そうだったのですね。映画は当時は多くの市民が楽しんでいたのですか?
須藤さん:いや、高級なものでしたね。たしか30円もして、当時だととても高くて、入ることも難しかったです。音楽が流れることで雰囲気を楽しんでいました。谷村座で『ゴジラ』を観たことを覚えています。
酒井さん:私は谷村座で「武田信玄」の映画を観たことが印象的でした。山本勘助も出てきたなぁ。
サーカスが来ていた!
須藤さん:「つるのルーツ」のCMのメイキング動画で市長さんが、「子どもの頃にサーカスも来ていたんだけど、どこだったかなあ」と仰っていたのを見て、私たちもサーカスが来ていたことを思い出しました。サーカスは東漸寺というお寺のあたりによく来ていました。実家が近くて、よく雰囲気を楽しんでいました。
マヤ:サーカスも!サーカスというと、海外からの劇団が来ているイメージがありますが、海外の方も来ていたりしたのですか?
須藤さん:いえ、そのころは外国からの人はほとんど来ていなくて、日本の劇団が来ていました。
「大樽のオートバイ」「ろくろ首」「3本足のニワトリ」などが来ていました!
富士吉田市のお祭りがあったあとに、都留に訪れて、また1週間くらいしたら次の街へ、という感じでした。お祭りがある期間には、露天商の方も来ていて、都留で市内のあちこちの旅館に泊まっていました。
マヤ:なるほど。
須藤さん:ほかにもこの商店街、名店街は、本当にたくさんのお店が並んでいて、もう今は残っていないお店も多いけれど、すごくにぎわっていました。
印象深い戦後の景色
マヤ:当時はこのあたりに住んでいた同級生はどれぐらいいたのですか?
須藤さん:当時は終戦の時期で、ちょうどわたし達は子どもが少ない世代だったので、1組38人が、4組ぶんぐらいかな?ひと学年が180人ほどしかいなかったと思います。わたしが生まれたときは終戦のちょっと前のちょうど7月だったので、爆撃機による被害が都留も富士吉田もものすごかったから、母が苦労して育児をしてくれていたという話をよく聞いていました。発電所にあった4本の土管が、鉄製だから、弾にするためにどんどん持っていかれちゃったりして、戦争の爪痕が残っていた時代でした。
マヤ:そうだったのですね。
須藤さん:それで、5歳になった時に、谷村で大火事があったんです。谷村の大火(昭和24年)って聞いたことないですか?火元が、今もある「すがや」さんのパーキングのあたりです。そこにひっそりとお宮さんが忘れられたかのようにあります。そのときは、もう命だけは、という感じでした。商店街が広い範囲で焼けてしまっていました。身内にも被害にあった人も多くて。そんな時代だったから、すごく大変だったんだけど、あまり辛かったという感じはなくて。なんだかんだこうして語れるってことは、思い出がたくさんあるんだなと。子どもの頃っていうのは不思議ですね。懐かしいです。
藤鉱の紋織物
お住まいに残っている織物を見せてくださいました。
マヤ:すごい。とっても緻密できれいですね。
おふたり:そうですよね~。城下町で作られていたもので、「紋織物」はウチ藤鉱発祥の技術なんです。当時の作り手の人たちの丁寧な技術が詰まっています。でももう作り手が居なくなってしまって、もうこの残っているものだけで、これ以上は作られることのないまぼろしの伝統文化なんですよ。
マヤ:そうなんですね…とても残念です。
おふたり:海外からも、こういった手作業で作られた伝統的な織物はすごく注目されていて、手織りだらこその細かさと、こういうノスタルジックさがすごい魅力的だと思うんです。だから本当に残念です。
マヤ:そうですね…。だからこそ、こういった城下町の足跡をぜひみなさんに知ってほしいですし、都留にたくさんのひとが訪れてほしいなと思います。
都留市への思い
マヤ:現在は城下町だった歴史を知る人が都留市民の中でも減っています。おふたりはいつ、都留が城下町だったと知ったのですか?
須藤さん:町の名前が全部、城下町の頃の名前だったからです。現在の都留市が編成されたのは、1954年。それまでは小さな町の集まりでした。大手町、高尾町、新井、羽根子、新町、栄町など、城下町時代の名残を感じて育ちました。
出身の谷一小の校歌の中にも「春は曙 富士の峰 花にあけゆく城山」と入っていたんですよ。毎年盆踊りで歌う歌にも「都留は良いとこ 八端の」と入っていたり。都留が城下町ということにとても愛着があるんです。
酒井さん:今はこうして富士吉田に住んでいるけれど、時間が経てば経つほど、都留が好きになるんです、不思議ですよね。私たち「つるっこ」だなあってしみじみ思うんです。
あと、都留の良いところは、都留文科大学があって大学生がたくさんいて、地域密着型なのがいいですよね。「お茶壷道中」も大学生がすごく協力してくれていて、すごくいいと思います。
マヤ:そうですよね。
酒井さん:今一生懸命、都留のことを記事にしたりしてくれていて、とっても嬉しいです。
マヤ:ありがとうございます。
須藤さん:今、都留市には城下町を感じられるようなおみやげもなかなかないし、そもそもおみやげ屋さんも全然ないですよね。ミュージアム都留だとか、見てほしいスポットはたくさんあるから、都留市が、電車に乗っている人がふと途中下車したくなるようなところになったらいいのにな、と思うんですよね。
編集後記
お二人の都留への大きな愛や大切な思い出が鮮明に感じられたインタビューでした。大学進学で移住してきた人がとても多い都留。ライター自身が移住してきた大学生ということもあり、まさにつるのルーツをたくさん知ることができました。今でも当時の地図を思い出しながら書けるなんて、楽しそうな子ども時代の景色があざやかに記憶されているんだなあと感じました。
おふたりが「七夕まつりなんかも賑やかだったよね〜」と話されていたことが印象的で、その当時の写真をミュージアム都留で探しました。活気にあふれたまちの雰囲気を皆さんにも感じ取ってほしいと思います。
(写真はミュージアム都留提供, 現在の山梨中央銀行、鰻やときわあたり)
このサイト内でも度々登場している伝統的な織物が、今は担い手がいないという現実が、やっぱりとても悔しく感じます。この記事を始め、このプロジェクトを通して都留の魅力が多くの人に伝わり、都留の魅力をこれからも大切にできるような流れを作ることができればうれしいな、と強く思いました。
須藤さんがインタビュー中に繰り返しおっしゃっていた「世界遺産富士山一番近い小さな城下町 つる市」であることが伝わるよう、つるのルーツでさまざまな歴史を発掘し、発信して行きたいと思います。