宝の山は鉱山で栄えていた!?
開山から閉山までの歴史
宝鉱山のはじまり! 発見したのは農民!?
山梨県唯一の鉱山が都留市宝村にあったということをご存じでしょうか。宝鉱山では、銅や硫化鉄鉱が豊富に採れており日本有数の硫化鉄鉱の鉄床の一つとして数えられていた程でした。これを発見したのは、当時農民だった岩村善五衛門氏。明治5年、いつものように山を歩いていた岩村氏は鉄鉱の石を発見しました。
そこから岩村氏は10年間にも渡って鉱山の基礎を築き上げていきます。氏は開拓するために山の地質を調べ、並々ならぬ苦労を重ね経営を行いました。この岩村氏の活躍が宝鉱山発展のきっかけになります。
その後鉱山は、明治27年、東京の鈴木政吉が開発に着手し、その後も資金上の面から何人かの経営者の手にわたりましたが、それも長続きはせず最終的には大手財閥の三菱合資会社に譲られることとなりました。
日本有数の産出量を誇った、鉱山最盛期!
三菱合資会社の経営に渡った後、日清・日露戦争の経過により国の産業は重工業化していき、それに伴って需要が高まり宝鉱山は最盛期を迎えます。溶鉱炉や機械を設備して精錬所を作ったり、銅だけでなく硫化鉄鉱、亜鉛鉱の採掘にも着手していったりと規模を広げていったとされています。
明治36年は産銅高が94トンだったが、翌年37年には200トンを超え、38年には288トンになったといい、景気の良さが伺えます。
最盛期には郡内地域からも人が集められ、200名近い人々によって採掘が進められていきました。それにより病院や鉱夫長屋と呼ばれる鉱山で働く労働者たちが生活するための住居も開設され、鉱山内に小学校分教場も設置されました。のどかな農村風景とは別世界のような鉱山のまちが宝村の中に形成されていったのです。宝鉱山最大の娯楽施設であり、映画鑑賞ができた「協和会館」もつくられました。そして宝鉱山が招いた好景気は地元民を支えていました。
80年の歴史に幕、宝鉱山の閉山から現在
最盛期を迎えた後、食糧事情の苦しさの中であっても生産を拡大したり、終戦後は形を改めたりと経営を続けることを試みました。
しかし、明治40年以降は採れる銅の質・量ともに低下し、粗銅や硫化鉄などがメインとなり、今までよりも採掘できなくなり経営が悪化したため採掘80年にもわたる宝鉱山の歴史に幕を閉じることとなりました。
また、同時期の明治40年ごろから鉱毒も検出されたことも影響します。
現在は、「宝の山ふれあいの里」として跡地が使われています。この施設ではキャンプやBBQをすることができるほか、ネイチャーセンターがあり自然環境について学びながら、里山の文化を体験し生きる力を育むプログラムの研修開発と実施が行われています。豊かな里山や清流など自然を十分に味わうことができるので、ぜひ皆様も訪ねてみてください!