秋元氏が残した宝が眠る?!円通院の中を見せてもらった!
円通院ってどんなお寺? なんで秋元氏と繋がりがあるの…?
円通院は応仁元年(1767)に梅巌全芳士が開基となって観音菩薩を勧請したことが始まりです。
その後、秋元氏が寛永十年(1633)に谷村藩主となり寛永十三年から城下町作りを始めました。そのなかで円通院は下谷村の北方竹之鼻の地(旧田町・現在の都留市駅のあたり)から現在の場所へと移りました。この辺りは、軍事的な意味合いで武士が集結しやすいように、お城の周りをお寺で囲ったそうです。
それ以来円通院は「秋元家臣の寺」とされ、家老の高山家をはじめとした多くの家臣に篤く信仰されてきました。
円通院は今でも本堂や鐘楼、五石橋など秋元時代の多くの寺宝が保存されており、秋元家家臣墓所もあるため、谷村藩の歴史を語る史跡とされています。
今日はそんな円通院を特別に見学させていただきました。
特に秋元氏に関わる寺宝の数々をご紹介します!
家中川に掛かっていた橋!「五石橋」
秋元氏によって行われた灌漑治水工事(水害を防ぐ、運輸・灌漑の便を図るなどのために水路や水流を整備・改良・保全すること)の家中川(小さな河川)には五つの石橋が架けられました。そのうちのひとつであった元坂の石橋が廃棄されそうになっていたところを、円通院境内の放生池に移して復元して保存されています。この五石橋は都留市の指定文化財にもなっています。
この石橋は、かつては馬車の通路としての役目を果たしました。
秋元氏の家臣が贈った「鐘楼」
この鐘楼は、秋元家の家老だった高山甚五兵衛朝繁が亡くなった母親を供養するために貞享三年(1686)年に寄進したものです。戦争中に多くの鐘が持っていかれてしまうなか、この鐘は文字がたくさん書かれていたため貴重なものだと判断され、持っていかれずに残ったと言われています。こちらも都留市の指定文化財になっています。
秋元氏の病気を治した?!「薬師瑠璃光如来」
秋元喬知(4代目)が病気平癒のために勧請(神仏の来臨を願うこと)した薬師如来で現在も秘佛とされています。実際に円通院に薬師如来を迎えたのは、秋元氏の医師であった桑貝宗林だと言われています。
この薬師瑠璃光如来はいつでも見られるわけではなく、二十年に一度しか開帳されていないとても貴重なものです。一番最近だと令和二年に開かれていたため、次にご開帳されるのは当分先になります。
他にも魅力的な寺宝
他にも、江戸時代からの歴史ある本堂には、秋元時代の狩野派の画家が描いた襖があったり、江戸時代からの檀家さんの位牌があったりと歴史を感じる貴重な品々を見せていただきました。
秋元氏の家臣の墓所
円通院は秋元家の家臣の墓所になっており、多くの家臣たちの信仰と深い繋がりがあることを感じさせられます。その背景には、秋元家臣の菩提寺(一家が代々その寺の宗旨に帰依して、先祖の死後の冥福を弔う寺院のこと)として整えられた歴史があるからです。
円通院の墓地からは勝山城を望むことができ、今でも家臣の方々が墓地から勝山城を眺めているのかも…と想像できますね。
住職の佐々木さんのご紹介
住職である佐々木俊道さんは、円通院を管理したり、日々の作務として法事やお葬式で読経を行う住職でありながら、駒沢女子大学の教授でもあります。大学では主に仏教や仏教と深い関わりのある日本文化にまつわる講義、ゼミなどを受け持っており大変お忙しくされていて都留にいない時も多くあるんだそう。取材中にも私たちが普段使っている「挨拶」という言葉の由来が実は仏教にあるというお話をしてくださりとてもためになりました。また、円通院は普段一般公開はされていませんが、希望があれば公開することは可能だそうです。ご興味がある方は是非一度ご連絡してみてくださいね。
編集後記
今回初めて円通院を訪れたのですが、20年に一度しか見られない薬師如来をはじめとした貴重なものがたくさんあり、興味深かったです。佐々木さんもとても親切な方で様々なことをお話してくださったので、楽しみながら取材できました。ありがとうございました!