城下町発掘ニュース特集 ②

小山田氏のルーツに迫る!長安寺と中津森に行ってみた

Written byひなこ

小山田氏の別荘地に建てられたとされる長安寺へ

小山田氏の別荘地に建てられたとされる長安寺へ 都留市の上谷という地域にあって、色鮮やかな門を構えている浄土宗の長安寺。実はこのお寺の場所、一時期はかつて都留郡の領主だった小山田氏の別荘地があったのだと言われているのです。今回はそんな長安寺を訪れて、元住職の花園さんに城下町のお話をお聞きしました!

長安寺ってどんなお寺?

長安寺ってどんなお寺? 長安寺の誕生は16世紀にまで遡ります。かつて武田氏の家臣であった小山田氏でしたが、武田勝頼が織田・徳川軍に敗れたことで武田氏は滅び、小山田氏も織田信忠に降参します。
小山田氏の権力が途絶えた後は、徳川家康の命令で赴任した鳥居元忠が郡内領主となり、空になってしまった小山田氏の古い別荘を寺院にしたことで長安寺が生まれました。つまり、長安寺は時の郡内領主であった鳥居元忠が開基したお寺なのです。
しかしながら長安寺はこれまで何度かの火災に遭って消失してしまいます。そのため現在の本堂の姿は当時のままというわけではなく、1725年に再建されたものです。それでも約300年もの歴史があるだけでなく、電気や機械もない時代に人力で40本の欅の柱でできた本堂を作り上げた高度な技術が使われた建築物であることから、山梨の有形文化財に指定されています。

地元の人たちの小山田氏の印象

ー小山田氏というと皆さんはどのようなイメージを持っているのでしょうか?

小山田氏は、織田・徳川軍の侵攻で武田氏と自身が共倒れすることを確信し、最後の最後で武田氏を裏切ってしまいます。この出来事が原因で一般的には「裏切り者」だと非難されることもあるようです。しかしながら都留を含めた郡内地域の方々の小山田氏に対する感情は決して否定的なものではありません。というのも、小山田氏の裏切りは「郡内領とその民を守る」ために行なった選択だとされているからです。小山田氏は自分の行く末を顧みず、主君ではなく自領の人々を選んだのでした。結果的に、小山田氏は苦渋の判断で裏切ったにも関わらず、敵に「簡単に主君を裏切るやつ」というレッテルを貼られて滅ぼされてしまうのですが、彼の民を思う心とそれを実行する行動力はとても素晴らしいものですね。
また、小山田氏は城下町を整備し、米が育たず貧しかった郡内地域を絹織物産業で大きく発展させました。当時の領民にとっては偉大な領主であったに違いありません。
このように、小山田氏は領民思いの心と郡内地域の発展に貢献したことから郡内地域の人々にはとても尊敬されている人物なのです。

城下町にするためのまちづくり

ー先述したように、小山田氏は城下町(谷村城下町)の整備・発展に寄与した人物でした。小山田氏はこの城下町を作るにあたってどのような工夫をしたのでしょうか。

城下町の条件は攻められた時に防げる作りにすることです。谷村城下町の当時の構造としては、領主の城を囲むように家臣団のお屋敷が配置され、砦の役割を果たしていました。また、小山田氏が滅んだ後さらにお寺が増えます。それらのお寺は皆徳川に味方するお寺であったため城下町の周りに配置し、いざとなったら外城のような形で逃げたり、防御壁としてお寺が使われていたといいます。他にも簡単に城に辿り着けないような工夫があります。それは、城までの道を狭くしたり、くねくねと曲げたりすることです。そうすることで城に辿り着くまでの時間を稼ぐことができるといいます。
ところで、そもそも何故小山田氏は谷村の地に城下町を作ったのでしょう。それは富士山が原因だと言います。富士山が最後に噴火したのは1707年とされていますが、それまでにも何回か噴火をしており、周辺の人々にとっては怖がられていたようです。そのような危険な場所で城下町を作るわけにもいかないため谷村に城下町を作ったそうです。

徳川が渡した茶壷

徳川が渡した茶壷 長安寺には寺宝として「茶壷」があります。この茶壷、普通の茶壺ではありません。鳥居元忠が治めていた時代、徳川家康が都留郡を巡見にきた時がありました。その時に当時の住職の方が徳川家康から頂いたものなのです。なぜ頂くにあたったのか気になりますよね。実は、巡見した際に徳川家康は長安寺の住職を呼び寄せたのですが、その住職は小山田の一族であったため「自分の一族を滅ぼした者に会いたくない」と思い、病と嘘をついて面会を断ったそうです。すると徳川は見舞いにと、お茶が入った茶壷を渡しました。当時お茶というのは大変貴重なもので、薬用として使われたとも言われています。今では当たり前のように飲めますが、昔は手柄をたてたものに茶器などを褒美として与え、大名や手柄のある者しか茶会を開けない、ということもあったようです。つまり当時はお茶というものの地位がとても高かったということが分かります。

門の作りが派手な理由

門の作りが派手な理由 長安寺といえば、門と本堂の雰囲気が全く異なっていることも特徴だと言えるでしょう。伝統的な色味で厳かな雰囲気のある本堂とは違い、門は二階建てのようになっており、真っ赤でハートや幾つかの図形が散りばめられた華美なものになっています。というのも、本来徳川の時代では、長安寺は徳川の手先のような存在だったために偉ぶっていたのだと言います。徳川軍が浄土宗を大事にしていたために、小山田氏が滅んだのちに長安寺は浄土宗のお寺になったそうです。だからこそ町の中心であった長安寺は得意げになって当時は二階建ての赤門にしていたとのことでした。元住職曰く、その後門は一度平屋になってしまったそうですが、本堂に見合うだけの門を作りたいという思いから、自分が住職になって二階建てに作り直したのだと言います。町の中心であった当時の活気ある長安寺をもう一度よみがえらせたいという花園さんの熱意が感じられますね。

元住職花園さんのメッセージ

花園さんは私たちに長安寺のことだけでなく、人生の先輩としてもたくさん語ってくれました。
まずは、外へ出てたくさんのことを経験して100歳になるまで楽しめるように生きること。青年時代の花園さんは、東京の友達が自身を外の世界へと連れ出してくれたことで、色々なことを経験できたそうです。そしてそれら1つ1つの楽しさを実感することができたと言います。特に若い人は体力があるうちに、いろんなところへ出向いて様々なことを体験し、自分の人生をより豊かで楽しいものにしてほしいとおっしゃっていました。
そして、上から受け継いだものを未来へ繋いでいくこと。文化でも命でも、それらを伝えていくというのはとても大事なことです。横のつながりというのは生きていく上でもちろん大切ですが、それだけでなく縦の繋がりも意識して、自分が残した跡、あるいは先人が残した跡を後世に伝えていくことも大事なのです。

中津森に行ってきた!

中津森に行ってきた! 先ほど、小山田氏の別荘地が長安寺にあったことは前述しましたが、小山田氏は谷村に本拠地を移す以前は中津森という地域に館を構えていました。しかしながら1530年に中津森の館が炎上してしまい、政治や経済、軍事など様々な面から新しい館を谷村に建てて移ったそうです。また同時に小山田氏以後の歴代城主が居城した場所ということで円通院周辺か現在の谷村第一小学校(谷村城跡)ではないかという推察もあるようです。
さてそんな中津森ですが、今現在中津森館跡は畑があったり鉄塔が立っていて、ほとんど跡らしいものは残っていません。ただ、段差があったり水が流れやすい土地なので、誰かがつまづくと人が折り重なったり足場がとられたりと、当時攻め込むには難しく館としては適している地形であったそうです。館の範囲としては用津院と桂林寺という2つの寺院の中間付近が中津森館跡だとされています。

編集後記

今回記事のインタビューをするにあたって、花園さんから長安寺の歴史や城下町のことだけでなく、自分がこれからどのような人生を歩むのか、そして生きる上で何が大切なのかなどとても自分の中で考えさせられる貴重なお話を聞くことができてよかったです!

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