武田が創り、小山田が興した 都留の歴史を見守る寺・長生寺
指定文化財が語る「甲州軍団」の原点

~大儀山 長生寺~
山梨県都留市下谷。かつて城下町として人の往来があり、祈りと統治の気配が交差していたこの地に、550年以上の時を重ねてきた「大儀山 長生寺」があります。
このお寺には、武田氏が未来を祈り、小山田氏が領国を治め、そして今も子どもたちの声が響くという、都留という土地の時間そのものが折り重なっています。
現住職・山本義昌(よしまさ)さんは、お寺が歩んできた長い時間を「過去」ではなく「今も続くもの」として捉え、長生寺を「歴史を預かり、次の世代へ静かに手渡していく場所」だと考え、お寺がもつ「雰囲気」を守っていきたい、と語ります。
◆長生寺(ちょうしょうじ)◆
文明元年(1469年)に武田信昌が創立した曹洞宗の名刹です。戦国期の小山田氏や近世の鳥居氏、秋元氏ら歴代谷村城主の菩提寺として崇敬されました。江戸期の貴重な山門「中雀門」が現存し、甲斐百八霊場の札所や甲州都留七福神の弁財天を祀るお寺としても親しまれています。
◆山本 義昌(やまもと よしまさ)さん◆
長生寺住職。都留市で生まれ育ち、県内の大学を卒業後、企業勤務を経て横浜・総持寺で修行。2023年(令和5年)に第44代住職を継承しました。現在は寺院運営とともに、1952年(昭和27年)創立の長生保育園理事長として地域に根ざした活動に尽力しています。
1|長生寺とは何か―都留の歴史を内包する古刹

■ 長生寺のはじまり―都留に置かれた祈りの拠点
大儀山長生寺は、文明元年(1469年)に、武田信玄の曽祖父にあたる武田信昌によって創建された、曹洞宗の古刹です。長生寺は、都留という土地において、長く祈りの拠点であり続けてきました。
「歴史」は年数ではなく、積み重なった時間
現住職の山本さんは、長生寺の歴史を、数字ではなく感覚として語っています。
「550年と言うと長いようですが、私は今55歳。私と同じ年齢の人間が10人いれば、もう550年なんです。そう考えると、歴史は決して遠い過去ではなく、地続きの短い時間だと思えるんです。」
長生寺にとって「550年の歴史」とは、年表上の出来事ではなく、人から人へと手渡されてきた時間そのものなのです。
時代を抱え込みながら、今も続いている場所
武士の祈り、領主の統治、地域の暮らし―
時代ごとの役割を引き受けながら、人々の営みとともに、現在へと続いてきました。
境内には子どもたちの声が響き、祈りは今も日常のなかにあります。
山本さんは、長生寺という存在を、
「どんな時代を通ってきたか、その積み重ねが、今の長生寺の雰囲気や空気をつくっているんだと思います」
と語ります。
長生寺の価値は、
「いつ建てられたか」ではなく、
「どんな時代を、どんな形で受け止め続けてきたか」にあるのかもしれません。
こうして長生寺は、時代ごとに異なる役割を担いながら、都留の歴史を引き受け続けてきました。
2|武田氏の祈りが始まった場所―創建の背景
長生寺の歩みの起点。文明元年(1469年)、大儀山 長生寺は、甲斐国守護・武田信昌によって創建されました。
当時の武田氏にとって、郡内地方は相模・武蔵へと通じる甲斐の東の要衝であり、この地に精神的な拠点を置くことは、統治者として重要な意味を持っていました。
その象徴が、長生寺の創建です。武田信昌は寺領として二十石を寄進し、この地に祈りの場を据えました。それは、単に一族の菩提を弔うための寺ではなく、領内の平穏と家の存続を願う、統治者としての祈りでした。
山本さんは、当時の祈りの意味を次のように語ります。
「昔は、お寺の信仰というのは、今よりずっと重かったんです。祈りというのは、個人のものではなくて、治める側の責任でもあったと思います。」
都留という土地が選ばれた背景には、地理的な意味も重なっています。外へと開かれた境界でありながら、守るべき最前線でもある郡内に拠点を置くことは、武田氏にとって東国支配に向けた覚悟の表明でもありました。
長生寺の創建は、信仰と統治が分かちがたく結びついていた時代の空気を、今に伝えています。この地に置かれた祈りは、やがて小山田氏へ、そして次の時代へと、静かに受け継がれていくことになります。
3|小山田氏と長生寺―郡内領主の誇り
戦国期、郡内地方を治めた小山田氏は、武田氏の重臣としてこの地の統治を担いました。
その中で長生寺を再興し、中興開山となったのが、二代小山田信有(出羽守、武田信玄公の父にあたる信虎公とともに戦国時代に活躍)です。
武田氏が置いた祈りの拠点を、実際の統治の中で支え続けた存在―
その役割は「中興」という言葉が示すように、新しく始めるのではなく、受け継いだものを立て直すことでした。
創建から時を経て、長生寺を支え直した小山田信有。その姿を今に伝えるのが、県指定文化財である 「小山田信有画像」 です。

後退した髪際や白髪の混じる髭など、理想化されていない表現からは、戦国武将として生き抜いた「老い」と「威厳」が同時に感じられます。修補銘に記された「契山存心」という言葉もまた、信有の内面を静かに映し出しています。
この肖像画が伝えているのは、信有という人物の内面だけではありません。
彼がどのような距離感でこの土地を治めていたのかも、都留の風景の中に残されています。
都留市宝地区では、小山田氏の居館であった中津森館のものと考えられる堀が確認されており、中津森館跡は長生寺のすぐ近くにあったと考えられています。
城と寺がすぐそばにあるということは、決して偶然ではありません。
城で政を行い、寺で祈る―。
政を行う場所と祈りの寺が歩いてすぐそばにある。この距離感は、その往復が日常の中にあり、祈りという行為が日々の生活に根差していたことを、今に伝えています。
小山田氏が長生寺を守り、再興した背景には、郡内領主としての誇りと責任がありました。
祈りを引き継ぐことは、単に寺を維持することではなく、この土地そのものを引き受ける行為だったのです。
4|時を超えて守られた至宝―指定文化財が語る歴史
長生寺に伝わる文化財は、ある一つの時代の栄華を示すために残されたものではありません。
支配者が変わっても、この寺が「預かる場所」であり、次の世代へ歴史が受け継がれていくように、お寺が守り続けてきたことの証なのです。
戦国期の武田・小山田時代から、近世の鳥居氏、秋元氏へと領主が移り変わるなかでも、この寺には祈りと文化が受け継がれてきました。
武田・小山田以前から重なっていた信仰の層
長生寺の文化財が語るのは、武田・小山田という戦国の時代だけではありません。
鎌倉末期から南北朝期に遡る釈迦三尊十六善神像は、武田氏が長生寺を創建する前の時代から、都留の地に信仰の文化が根づいていており、長生寺が人々の祈りの場であったことを示してくれます。

戦国から近世へ―時代の転換点に置かれた美
近世初期を象徴する文化財が、鳥居成次(徳川家康に仕えた鳥居元忠の三男で谷村藩初代藩主)によって寄進された龍虎梅竹図屏風です。

1618年の火災で諸堂を失った長生寺が、七堂伽藍として再建される過程で伝えられたこの屏風は、近世都留の幕開けを象徴する存在ともいえます。
戦国の世が終わり、城下町としての都留が形づくられていくなかで、長生寺もまた、新たな時代の空気を受け入れていきました。
支配者が変わっても受け継がれた理由
明治以降、荒廃の時期を経ながらも、昭和五十六年の開創五百年を契機に、檀信徒の協力によって境内や堂宇が整えられてきました。
小山田氏から鳥居氏、秋元氏へ。
支配者が変わっても文化財が守られてきた背景には、この寺を「預かる場所」として大切に思い、信仰してきた人々の意志がありました。
山本さんは、こうした文化財を管理することについて、
「今ここにあるものを、きちんと次に渡していく責任があると思っています。」
と話します。
ただ、長生寺が預かっているのは、文化財のように形あるものだけではありません。
人々が祈り、願いを託してきた記憶や物語もまた、今もこの場所に受け継がれています。
5|子どもたちの声が響く寺ー今も呼吸する歴史
長生寺の境内には、1952年(昭和27年)に開園した「長生保育園」があり、今も子どもたちの声が絶えることはありません。
長生寺は、歴史を静かに保存する場所であると同時に、日々の営みが重なり続ける場所でもあります。
山本さんは、お寺のあり方について、お寺が歩んできた道のりが、次の世代にも受け継がれていくようにしたい、と語ってくれました。
「大切にしたいのは、お寺の雰囲気や空気です。ただ、それは静まり返ったものではないんです。住職の私がいなければ、その空気はできないかというと、そうでもない。このお寺に積み重なってきた雰囲気や空気を、これまでも代々の住職が守ってきたということです。その重みを感じながら、住職を務めています。」

550年以上の時間のなかで、子どもたちは遊び、笑い、走り回ってきました。
その賑わいもまた、長生寺が「生きている寺」であることを示す風景の一つです。
長生寺には、不幸をだるまに託し、福へと転じようとした人々の思いを伝える「黒だるま」の民話も残されています。

史実として記された歴史だけでなく、こうした語りや、いまも続く教育の営みが重なり合い、この場所には都留という土地のやさしさと力強さが息づいています。
さらに、長生寺の信仰空間は、堂内だけにとどまるものではありません。
境内地内は山に囲まれ、山中にも「半僧坊」や「観音菩薩像」「達磨地蔵」が祀られています。



お寺に残る資料からも、かつて人々が山を登り、この場所に祈りを捧げてきたことがうかがえます。
現在でも、長生保育園の園児たちはこの山が、お散歩コースになっていて、園庭だけでなく、広い境内地の山も子どもたちの遊び場になっているそうです。
山頂を目指して歩いていくと、景色が開けて都留市内を見下ろす大パノラマの絶景。
天気の良い日には富士山の姿も望むことができます。

祈りの場へ向かう道の途中で、暮らす町と山々の風景と信仰の山、富士山を見渡す―
長生寺は、過去の信仰が残る場所としてその時代に止まるのではなく、子どもたちの足音とともに、時代によって変わり続ける信仰の風景を見守り続けています。
6|信玄公祭りが描く武田の物語、その起点にある場所
長生寺にゆかりのある武田氏といえば、毎年4月に行われ、山梨を大いに沸かせる信玄公祭りでは、甲州軍団の勇姿が再現されます。
一千人を超える参加者が集う「甲州軍団出陣」は、武田の物語を今に伝える象徴的な行事です。
その物語の起点となる祈りは、文明元年(1469年)、武田信昌が都留市に長生寺を開いたことに始まります。
郡内を治めた小山田氏がその祈りを引き受け、時代が移り変わっても、信仰と文化はこの地で守られてきました。
長生寺には、こうした史実に加え、記録には残らない時間や、人々の記憶のなかで語り継がれてきた由緒もあります。当山十世・則室大和尚の代に、徳川家康公が立ち寄ったと伝えられているのも、その一つです。
都留の地に根付いた信仰と祈り、名だたる武将が治めた歴史、人々の間で語り継がれた物語。
それらが今も重なり合い、息づいている場所が長生寺です。
その空気を、ぜひ感じてみてください。













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