徳川将軍も愛した宇治茶を運ぶ!
お茶壷道中の秘密に迫る
お茶壷道中の秘密に迫る
2024年は、台風の影響で延期になった八朔祭の「大名行列(屋台巡行)」と、「つる産業まつり」恒例の「お茶壷道中行列」を同日開催。大勢の人が、江戸時代の装いで列を作って町を練り歩きます。どちらも同じ江戸時代の様子を再現した行列で、なんとなく似ているのでは?と思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、実は全くの別物なのです。
今回はお茶壷道中行列の関係者のみなさんにインタビュー。お茶壷道中の基礎知識や魅力、2つの行列の違い、そして行列にかける思いなどを伺いました。
◆お茶壷道中行列◆
江戸時代に約250年にわたって行われていた、徳川将軍御用達の京都・宇治の高品質なお茶を、江戸城まで運ぶ行事「茶壷道中(参照①)」を再現したもの。2000年に第一回が行われ、20年以上続けられている(参照②)。
◆お話を聞かせてくださった岩間さん、奥脇さん、齊藤さん◆
(写真左から)
・岩間 公勇さん(68):お茶壷道中行列実行委員長。行列再現の”発起人”。関連行事の発案、とりまとめ等を行う。
・奥脇 勝則さん(67):お茶壷道中行列事務局長。 岩間さんの意見やアイデアをもとに実行部隊として現場を動かす。
・齊藤 淳さん(67):今年(2024年)、令和6年度のお茶壷道中行列で採茶使役を務める。
※採茶使(さいちゃし)=茶壷道中で茶壺を運搬する際の最高責任者。
お茶壷道中行列と大名行列 似ているようで全然違う!
都留に伝わる2つの行列
のり:さっそくですが、お茶壷道中について改めて教えてください。江戸時代、徳川将軍御用達の宇治茶を買い付けに行く行事ですよね。
岩間さん:実は、江戸時代には、各地の大名が、宇治の高品質なてん茶(抹茶の原料)を買い付けるために「お茶壷道中」を行っていたんです。お茶の栽培は、古くから全国で行われていて、てん茶を作っていたところもありました。ですが江戸幕府は、てん茶の栽培は京都の宇治だけとして、他の場所での生産を禁じたんです。
のり:なぜですか?
奥脇さん:おそらくですが、宇治のお茶が美味しいことが分かっていたからです。
宇治ではてん茶を栽培する際に、お茶の木の上に覆いをかぶせて日差しを遮っていました。そうすると、茶葉の渋みの成分である「カテキン」が生成されなくなるんです。だから甘くて美味しいし、色も鮮やかな緑色。これをいち早く取り入れたのが宇治だったと言われています。
宇治のお茶は天皇家の御用達でもありました。それを徳川将軍も気に入って、毎年新茶の時期には誰よりも先に買い付けに行っていたんです。
のり:将軍家のお茶壷道中で使われたのが、勝山城の茶蔵だったのですか?
岩間さん:そうです!
江戸幕府は毎年、採茶使と呼ばれるお茶壷道中の行列の最高責任者を選んで、江戸から宇治へ使いを立てていました。その使いは、多いときで1000人にもなったと言われます。
一行の行列は、江戸から東海道を通って宇治に向かい、宇治の新茶を茶壷に詰め、帰りは暑さと湿気からお茶を守るために中山道と甲州街道を通りました。その途中、甲州街道から少し外れた都留・谷村の勝山城に茶壷を運び、茶蔵で半年ほど熟成。秋になると、再び勝山城を訪れて茶壷を運び出し、江戸の将軍家のもとへ届けられました。
この茶蔵での熟成というのが、全国で唯一、谷村の勝山城でのみ行われたんです。これをなんとか都留のPRに繋げたいというところから、「お茶壷道中行列」として再現し、20年以上続けています。
のり:都留には、お茶壷道中のほかにもう一つ、八朔祭での大名行列もありますよね。これとはどう違うのでしょうか?
岩間さん:江戸時代に行われていた行列を再現しているという点はどちらも同じですが、お茶壷道中は徳川将軍のものですから、格式が非常に高く、権威ある行列なんです。
のり:確かに、八朔祭の大名行列は、屋台巡行もあってにぎやかで華やかな印象ですが、お茶壷道中行列は厳粛なイメージです。一歩ずつゆっくり、不思議な掛け声と共に独特な進み方をしますよね。
岩間さん:あの掛け声は「下にいろー」と言っています。お茶壷道中の行列が通るから下がっていなさいという意味です。
奥脇さん:あと、童謡の「ずいずいすっころばし」ってありますよね。諸説ありますが、お茶壷道中を歌った歌と言われ、この歌詞からもお茶壷道中の権威が分かります。
”茶壷に追われて とっぴんしゃん(戸を閉めた)”
”抜けたら どんこしょ(通過したら やれやれと息をつく)”
”井戸の周りでお茶碗欠いたのだあれ”
茶壷が来たら、茶碗も割れない。音も出せない。お葬式や結婚式さえ延期。煙も出しちゃダメ。かまどで煮炊きもできない。何もせずに家の中でじっとしていないといけない。
格式の高さだけではなく、行列を取り仕切る採茶使を、野蛮な下級武士が務めていた時期があり、少しでも気に障ることがあれば切られてしまうからと、純粋に恐れられていたという面もあるそうです。
お茶壷道中行列は「史実」が曖昧
弱みであり最大の強みでもある
のり:ピンと張り詰めた空気の中で、お茶壷道中の行列が進んでいったというイメージが湧きました。
岩間さん:その「イメージ」や推測が多いのが、お茶壷道中行列です。というのも、詳細が書かれた資料があまり残されていないんですよ。
2000年にこの行列を復活させたときに、他の自治体でお茶壷道中のイベントを行っているところや、お茶の産地の宇治市など、関連する町に行って取材をしたのですが、例えば、幕府の中で誰がお茶壷道中を考えて制度化したのかは、ある程度の推測はつきますが、ちゃんとした裏付けの資料は残っていないんです。
逆に言うと、お茶壷道中は、その時代についてきちんと知識をつければ、面白くて壮大な創作ができる素材じゃないかなと思います。
のり:壮大な創作?
岩間さん:例えば、お茶壷道中の行列は、単純に将軍御用達の宇治茶を運ぶためだけに行われたのではなく、幕府の権威を表すためのものであったとも推測できます。行列が来たら、どんなに偉い大名でも道や宿を譲らなくてはなりませんでしたから、町の人たちは「自分たちのお殿様が譲るなんて!」と、言葉にしなくても分かるものがあったはずですよね。
さらに、ルートも、行きは東海道、帰りは中山道と甲州街道。海側にも山側にも、徳川幕府が強力に支配していると広く知らしめることができました。
のり:壮大な「お取り寄せ」のようなものかと思っていましたが、戦略的なものだったとも読み取れますね。
岩間さん:今、都留には、お八朔の大名行列と、お茶壷道中の行列がありますよね。2つともあるのは、全国で都留だけです。うまくコラボレーションすれば、ここにしかない観光資源が誕生するかもしれません。
のり:加えて、茶蔵も勝山城だけということで、都留には全国唯一のものが揃っていますね。ところで、なぜ勝山城に茶蔵が作られたのでしょうか?
岩間さん:京都の愛宕山など、夏に涼しいところでお茶を保管するというのはあったんですが、将軍家の茶蔵がなぜ勝山城だったのか。それは、気候条件だけではなく、谷村の大名だった秋元泰朝が、徳川家康の臨終に立ち会うほど、幕府内で重要な立場だったということ。そして、地理的なものがあったからと言われています。
徳川家康を祀る久能山東照宮から、富士山を経由して、日光東照宮を結んだ線。そして、江戸と京都を結ぶ線が、ちょうど都留で交わる。強力なパワースポットなんです。(参照)
奥脇さん:また、富士山は古くから信仰の対象でしたから、お茶に富士の霊気を当てると美味しくなるとされていました。勝山城で半年間の熟成期間を経たお茶は、本当に美味しかったから長きにわたり、続けられたんだと思います。
使命は「まな板に”素材”を乗せておくこと」
料理は次世代に託して
のり:不思議な縁というか・・・詳しいことが気になるし、想像も広がるし、お茶壷道中行列は今後も益々発展していきそうですが、何か考えていることはありますか?
岩間さん:これまでも、シンポジウムや宇治へのツアー、他の地域のお茶壷道中関連イベントに参加するなど様々な活動をしてきましたが、これからは地元の子どもたちに向けたイベントに力を入れたいと考えています。最初から「お茶壷道中の歴史を学ぶ」のではなく、まずは「都留でお茶を飲む」というところから始め、どうして都留でお茶を飲むの?実は都留はお茶と関りがあるんだよ、などと、ハードルの低いところから事業展開をしていく計画です。
実は、2024年から都留文科大学の「つる子どもまつり」実行委員会の中に入らせてもらって、「お茶と壷の国」として、臼でてん茶をひき、抹茶を飲む体験をしてもらおうと動いています。
のり:それなら気負わずに、気軽に参加できそうですね!
奥脇さん:物がモノだけに、お八朔の大名行列と重なるんじゃない?とか、都留はお茶の産地じゃないから関係ない!とか、そう思って通り過ぎてしまう人もいるから、それを子どもの頃から薄めるというか、抵抗がなくなるようにしていければという思いがあるんですよね。
のり:何事も土台作りは大事ですよね。
齊藤さん:私の家は数百年前から都留・谷村にあったそうなんですが、子どもの頃に祖母から「勝山城は、将軍様が飲むお茶を保管していた、すごく権威のある城だったんだぞ」と聞いていて。でも正直、「自分の地域が徳川家康のお茶を?言葉は悪いけど、年寄りの世迷言みたいなものじゃない?」と考えていたんです。なぜなら、小学校でも中学校でも高校でも、全くそんな話が出なかったから。
岩間さんがお茶壷道中行列を始めてから、目にしていたので存在は知っていたんですが、今回採茶使を務めるにあたって改めて勉強して、権威的なものや、本当にすごいものだったと初めて知りました。
のり:都留に住んでいる方でも、まだまだ知らない方がいらっしゃるかもしれないですね。
岩間さん:少しは浸透してきたかなと感じますが、でも、まだまだ。10年後、20年後、100年後、僕らは生きていないから見られないけど、いつか「日本の中の都留です!」と世界にPRするチャンスを手にしたときに、お茶壷道中は素材にできるものだと思うんですよ。
だから我々は、まな板の上に乗るような形でお茶壷道中を残しておきたい。料理は、今の子どもたちが、これからを生きていく人たちが、その時代にマッチした形でしてくれたら良いから。そのために、まだまだ老体に鞭打ってやりたいという思いはありますね。
取材後記
時折冗談を交えながらお話を聞かせてくださった皆さん。取材は終始なごやかに、楽しく進みました。実はお三方は同級生で小学生の頃からの仲。それぞれにお茶壷道中への熱い思いを抱いて活動されているのですが、仲間と共に目標に向かって励むお姿は、どこか”青春”のようで、うらやましくも感じました。
お茶壷道中行列は、「つる産業まつり」内での開催です。2024年は11月10日(日)午前10時30分から、都留市上谷の金毘羅神社~祭りメイン会場の谷村第一小学校校庭までの間を練り歩きます。また、同日午後3時から、ふるさと時代祭りの大名行列も行われます。ぜひ、2つの行列の違いを感じてみてください。