都留の優しさ探訪

「祝・市制70年!」
都留で生まれ育った堀内市長が語る
城下町・都留の”これまで”と”これから”

Written byのり

都留市長 堀内富久(ほりうちとみひさ)氏

都留市長 堀内富久(ほりうちとみひさ)氏 この春、都留市は誕生からちょうど70年(市制施行=昭和29年4月)。そこで今回は、都留で生まれ育った堀内市長(75)にインタビュー。堀内市長が少年時代、実際に目にしてきた織物の町として の都留、その後の時代の流れとともに変化してきた町の様子、そして市長が思い描く未来の姿とは?お話を伺いました。

◆堀内富久(ほりうちとみひさ)市長◆
昭和24年1月生まれ。都留市(旧谷村町)出身。県立谷村高等学校(現県立興譲館高等学校)卒業後、電気関連会社、家業の電気設備会社での勤務・経営を経て、平成19年から山梨県議会 議員を2期務め、平成25年から都留市長就任。現在3期目。

町を歩けば聞こえた 人々の声と「ガチャン ガチャン」の音

町を歩けば聞こえた 人々の声と「ガチャン ガチャン」の音 のり:堀内市長は、生まれも育ちも都留(旧谷村町)で、現在まで(75年間)都留にお住まいということですが、市長が幼いころの都留の町はどんな様子だったのですか?

私が小学校低学年の頃は、国道139号(富士みち)がまだ舗装されていませんでした。砂利だったので、冬の雨上がりには水溜まりが凍って、そこでスケートをしましたよ。通っていたのは谷村第一小学校で、当時も今と同じ場所にありました。
当時はまさに「ガチャマン景気(織機をガチャンと織れば万の金が儲かる)」で、町を歩けば必ず「ガチャン ガチャン」と機織りの音が聞こえてきました。機織りの会社はたくさんあったし、紋切屋(織物を織るための型紙を作る専門業者)や、養蚕もやっていたんじゃないかな。
人も多くにぎやかで、芸者さんも大勢いたので、八朔祭りの屋台にも芸者さんが乗っていたくらい。映画館も市内に3つあって、年の離れた兄(6人兄弟の長男、市長は末っ子)と一緒に映画を観に行くのが子どもの頃の一番の楽しみでした。
確か、私が中学校を卒業する頃には外国製のものが流行し始め、当時がガチャマン景気のピークだったと思います。

のり:今の都留の印象とはかなり違いますね。城下町の名残を感じるところはありましたか?

こちらの古い図をご覧ください。これは1840年頃の地図で、あずき色の部分が住居で、実は私の実家も載っています。昔の住居はウナギの寝床のように細長かったのですが、私の住んでいた実家もそうでした。今でもその名残がある住居もありますよ。
黄色の部分は畑です。畑というと、今、市内で梅が植えられている場所の多くは、私が幼い頃は桑畑でした。あるときから「梅は果実も枝もお金になるから」と桑畑をやめて梅を植えるようになりました。桑畑があったときは、それが「山」と「人里」の間、「獣」と「人」の境界になっていたので、獣害もそんなに多くなかったと思います。

時代の流れに沿って柔軟に変化していく 都留の人々と産業

時代の流れに沿って柔軟に変化していく 都留の人々と産業 のり:経済面ではどのように変化してきたのでしょうか?

桑畑が梅林に変わったように、良いと言われれば良いと言われるものに移行してきたイメージです。私の印象ですが、都留の人は城下町風情が残っていて、のんびりした性格の人が多いと思いま す。汗だくになって大儲けしようというよりは、時代の流れの中で、織物が良いと言われれば織物、織物が衰退した後は機械金属にと、柔軟に変わっていけるんです。
また、今から約60年前に第一回の企業誘致があり、その時に、今のNBCメッシュテックや、ジャノメダイカスト、NGKセラミックデバイスが来てくれました。二回目の企業誘致はまさに「今」です!!

のり:「今」と言うと?

今まさに企業誘致をしようと動いているんです。例えば、物流の”中間倉庫”ではなく、あくまでも” 企業”を。
場所は、市内にある約11ヘクタールの田畑で、これまでは農業のためにしか使えなかった土地なのですが、法改正によって使えるようになったんです。以前、地権者にアンケートを実施したところ、貸したい・売りたい・企業誘致をしてほしいという声がものすごく多くて、約70%もあったんですよ。市民の方からも、雇用が生まれるし、人も増えるのではないかという声がありました。

のり:これからまた都留の町が変わっていくかも知れないのですね!他にも何か動いていることや考えていることはありますか?

今の都留の産業と言えば機械金属業で、技術を持っている方が沢山います。高齢社会の中で必要なもの、例えば車椅子や介護ロボットなどで、その技術を活かせないだろうか?と考え、機械金属業者に働きかけています。
また、同じく高齢社会の中で、「生涯活躍のまち(日本版CCRC)構想」を推進してきました。首都圏のアクティブシニア(元気で就労の意欲にあふれ、豊かな経験と知識を持っている高齢者)に、都留に移住していただき、経済活性化や雇用の創出などに繋げたいというものです。既に、旧雇用促進住宅をサービス付き高齢者向け住宅にリノベーションし、継続的に活用していただいています。

のり:シニア世代以外に着目している世代は?

まずは、働き盛りの若い世代。働き方がどんどん変わってきていて、出社せずにリモートで働くことができるようになってきているし、出社するにしても都留から都内までなら、それほど時間もかからないという立地的なメリットがあります。そういった若い世代が移住をしてきた際に子育てをしやすいように、子どもの教育や支援にはかなり力を入れています。例えば、従来の詰め込み型学習ではなく、子どもが主体的に学ぶ「探求型学習」の推進、「小中学校の給食の無償化」などを行ってきました。
また、これが一番のカギなのですが、いかに大学生に都留に残ってもらうかを考えています。もちろん皆さん様々ですが、都会から都留に来た人は地元に帰って就職することが多いでしょう。だけど、地方から来た人は、地元に帰っても就職先がないケースや、都会に就職したもののイメージと違って別の所に移住するケースもあります。その場合に都留が受け皿になったり、第一志望で残ってもらったりできれば、町が栄えてくると思います。これができるかできないか、今からの都留市に懸かっていますね。

勝山城をこの目で見たい!復元の夢は工夫を凝らして

のり:町のにぎわいの他にもう一つ、堀内市長がよみがえらせたいものがあったんですよね。

勝山城を復元したかったんです、実際に。城山(勝山城跡)に、お城、吊り橋、櫓、石垣、などと具体的な場所も含めて構想していました。ただ、図面がないことや許認可など様々な要因から断念せざるを得なくて。
ですが、とにかく何か、今の技術の中でできることは?という思いから、AR(Augmented Reality
=拡張現実。現実世界にCGなどを付け加えること)での復元を依頼しました。

のり: つるのルーツ内「つる歴史探訪ARスポット」に掲載しています。さらに考えていることがあるそうですが・・・?

今の技術を使い、光で演出ができたらと考えています。勝山城跡に実際に足を運んだら、お城そのものは存在しなくても、プロジェクションマッピングのような形で、目で見えるようになったら面白い んじゃないでしょうか。
また、茶蔵(お茶壺道中で運ばれた茶壺を保管していたと伝わる蔵)も同様で、そこに人が来たら、
「ずいずいずっころばし(お茶壺道中を歌ったとされる歌)」が流れるようにしたらどうかと考えました。ただ、茶蔵も、実際にどんなものだったか分かるような資料がないので、復元が難しいんですよね。個人的には、それは置いておいて、豪華にやってみたらどうかな?と思っています。

のり: 今後の都留の町のにぎわいも、どんな形であれ勝山城の復元も、楽しみにしています!

任せてください!私は何をするにも絶対、最後の最後まで諦めないタイプですから!!

編集後記

高校卒業後しばらくして家業を継ぎ、遊ぶ間もなく毎日無我夢中で働いていたという堀内市長。少し落ち着いた頃に、仲間の影響で、ようやくゴルフや釣りといった様々な趣味を始められました。政治の世界に足を踏み入れたのも、仲間の勧めでした。ですが、実のところは、政治家にだけはなりたくなかったとのこと。初めて出馬した県会議員の選挙では次点当選(2番目)だったのが悔しく、1番になるために全身全霊全力で県民と向き合い、その結果、気が付けば市長となることができたとのこと。
悔しさをバネにして再挑戦する姿勢は、今最もはまっている趣味・釣りにも。なんと、130㎏のマグロを釣り上げたことがあるそうです。しかし、仲間が200㎏以上のマグロを釣ったことから、自分も!と、今年2月には300㎏のマグロと対峙。残念ながら逃してしまったものの、次こそは!と燃えているそうです。
”何事も諦めずにやり遂げる”。そんな堀内市長が思い描く未来の都留が、実現していくのが楽しみです。

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