城下町発掘ニュース特集 ②

”伝承”から地域の歴史に触れてみよう!

Written byのり

〜都留の伝承〜

 突然ですが、みなさんがお住まいの町に【伝承】はありますか?
 地域の人たちの間で言い伝えられてきた伝承。昔の人々の思想や信仰が現れていたり、地名のもとになっていたり・・・。真実かどうかはさておき、その土地の歴史に触れるきっかけの1つになるのではないでしょうか?
 そこで今回のテーマは、都留の伝承。ミュージアム都留の学芸員・福島さん監修のもと、市内の神社にまつわる伝承を3つご紹介します。

①生出(おいで)神社「白蛇伝説」

①生出(おいで)神社「白蛇伝説」  今年2025年は巳年。ということで、巳=蛇が出てくる伝説から。

 都留最大のお祭り「八朔祭」でおなじみ。都留市四日市場、国道139号沿いにある【生出神社】です。

 建御名方命と八坂刀売命という夫婦の神様を祀る神社で、もともとは「諏訪神社」として、古くから地元の人たちの信仰を集めてきました。

 それが、江戸時代。都留(谷村藩)の領主・秋元氏が、世継ぎ誕生を祈願し、成就したことから「生出神社」となったと伝えられています。以来、安産祈願や家族の病が治りますようにと願う人たちが訪れるようになりました。

そんな生出神社に伝わる「白蛇伝説」

 ある年のこと。
 コロリ(=コレラ)という病が大流行。
 激しい下痢で、罹った人は3日以内に亡くなってしまうことから
 当時、最も恐れられていた病でした。
 
 そこに、信心深い老婆がいました。
 にもかかわらず、夫も息子夫婦も亡くし、孫との二人暮らし。
 後継ぎはこの孫しかいないと思うと、より一層、神様への祈りは深まります。

 しかし、コロリは、無情にもこの孫をも襲うのです。
 すると老婆は、孫の命を諦め、こう祈るように。
 
 「このままでは村から人がいなくなってしまう。
  孫や自分の命と引き換えに、コロリを鎮めてほしい」
 
 長い祈りの後、顔を上げると、老婆の目の前には白い蛇が。
 白蛇は老婆を見つめると、振り返りながら御手洗場へ行き、水を飲むしぐさを。
 
 それを見た老婆は、
 生出神社のある生出山の山頂には池があって
 神様の遣いである白蛇が住んでいるという言い伝えを思い出し、
 「神様の水を御手洗場から汲んで飲ませよ」というお告げと受け止めます。

 早速、水を汲んで持ち帰り、孫に与えると、生気を取り戻し、病から解放されたのです。
 老婆は同じ病の村人たちにも神様の水を与え、多くの人が一命をとりとめました。


                             (引用文献:都留の民話)

 のちに、コレラの治療は、抗生物質と脱水症状を防ぐための水分を摂取することになるのですが、当時、水が原因の病とされていたため、水を与えることは非常識だったそうです。

 実は、都留市井倉にある、同じく「生出神社」にも白い蛇にまつわる言い伝えが!

 井倉の生出神社では、生出山の頂上にある小さな池に白蛇が住んでいて、時折里に姿を現わすことから、人々は恐れ慎み、諏訪明神として祀るようになった、とのこと。

 ちなみに、その生出山の山頂には、かつての調査で、市内最古の縄文時代の住居跡や弥生時代の土器が見つかったという記録も残されています。

 伝説が、その時代や地域の歴史を知るきっかけになりました。
 (なお、生出山山頂は、現在は採石場となっていて、立ち入ることはできません)。

②石船(いしぶな)神社・雛鶴(ひなづる)神社「雛鶴姫伝説」

②石船(いしぶな)神社・雛鶴(ひなづる)神社「雛鶴姫伝説」  続いては、盛里地区にある2つの神社にまつわる伝承。いずれも県道35号線沿いにある【石船神社】と【雛鶴神社】です。

 まずは【石船神社】。表筒男命、中筒男命、底筒男命という3人の水や航海の神様を祀る神社なのですが、この神社に祀られているとされるのはもう一人。鎌倉時代の皇族、後醍醐天皇の皇子で征夷大将軍にも任ぜられた「護良(もりよし、もりなが)親王」。打ち首にあった護良親王の頭蓋骨と伝わるものが祀られているのです。

  一方の【雛鶴神社】に祀られているのが、護良親王の側室の雛鶴姫。これらの場所には、護良親王と雛鶴姫にまつわる悲しい伝説が残されています。

 幕府と朝廷が対立していたころのことです。
 
 鎌倉の牢屋に幽閉されていた護良親王。
 打ち首にあったと知った雛鶴姫は、吉野(現在の奈良県)で手厚く葬ろうと、
 従臣(家来)たちとともに、厳しい監視の目をくぐって護良親王の首を奪います。
 
 一行は、朝廷に味方する甲斐の小山田氏を頼り、人目を避けて秋山川沿いを進みました。
 そのころ、雛鶴姫のお腹の中には護良親王の皇子が。

 秋山峠に近づいたときに産気づき、宿を探したものの、
 付近には、罰を恐れて、朝廷ゆかりの姫を助ける人はいませんでした。

 やむをえず、無理をして峠を越えた一行でしたが、
 姫の容体は悪くなり、これ以上先へは進めません。

 従臣が集めた枯草の上で、姫は苦しみながら出産。そのまま亡くなってしまうのです。

 姫の産んだ子は、葛城宮綴連王(かつらぎのみやつれづれおう)と名付けられますが、
 七歳で生涯を終えます。

 村人たちは、姫と子の霊を慰めるために【雛鶴神社】を。
 護良親王の首は、のちに従臣に(土着して農民に)よって【石船神社】に安置されました。

                             
                             (引用文献:都留の民話)

 石船神社にある護良親王の首とされる頭蓋骨は、毎年1月に、神社の役員交代の儀式の際に公開されます。今年も行われた神事には、地元の人たちをはじめ、上野原市から雛鶴姫伝説を研究している秋山中学校の生徒たちが見学に訪れました。



 こちらが護良親王の首とされる頭蓋骨です。

 頭蓋骨の上に箔(金や銀を薄い板のようにしたもの)を押しつけ、墨で梵字(ぼんじ:古代インドの文字)を書き、その上に、小さな木片や、漆と木くずを混ぜたようなもので肉付け。まるで生きている人の頭のように仕上げられています。目には玉眼(水晶)が使われていて、現在は左目のみ残っているそうです。

この複顔技術は、全国でも最も古い時代のものとして評価されていて、都留市の指定有形文化財にもなっています。

 古くから地元の人たちの手で大切にされ続けてきたものが、真偽は定かではないものの、伝説があることによって、次の世代へと受け継ぎやすくなっているのかもしれませんね。

③機(はた)神社「天降る幡(はた)伝説」

③機(はた)神社「天降る幡(はた)伝説」 最後は、以前つるのルーツの特集記事でご紹介した、都留市大幡にある【機神社】
織物の神様を祀る神社で、こんな言い伝えが。

 大昔、天から大きな幡(はた=布)が降ってきて大木にひっかかり、
 それを見つけた村人は話し合いの末、幡を祀る神社を建てた。
 それが機神社。

 この場所はそれ以前は湯津岩村と呼ばれていたが、
 大きな幡が降ってきたから”大幡”と呼ばれるようになり、
 この地方で織物が盛んになったと伝わる。

                          (引用文献:都留の民話)

機神社の例祭は、4月15日に行われ、神事のほか、獅子舞や神楽の奉納が行われます。

<編集後記>

人々の信仰や思想をはじめ、目には見えないものを後世に伝えるのは難しいですが、伝承があることによって、イメージが湧き、親しみを持ったり、大事に継承されしやすくなったりするのかもしれません。あなたの地元に伝わる伝承、ぜひ教えてください!!

コメント

  • 酒井鈴江

    織神社は宝の奥にあります。私の仕事している宝山寮は毎年神社の草刈りをして奉仕しています。いつもはひっそりしていますがとても静かでよい所です。私もみんなと一緒にお掃除に参加していますのでよく知っています。記事を読むととても嬉しい気持ちになりました。ありがとうございました❗

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