いざ!都留の織物の歴史を感じる旅へ!
都留の織物の歴史を感じる旅へ!
都留市制70年記念企画の第二弾は、都留の歴史を感じるお出かけ情報をお届けします!
記念企画初回の堀内市長のインタビューで、”町を歩けば必ず「ガチャン ガチャン」と機織りの音が聞こえてきた”とのお話があったことから、今回のテーマは、都留の織物の歴史。情報が眠る場所や、ゆかりのある場所へ出掛けてきました。取材を通して見えてきたのは、古くから続く、都留の人々と織物との深い関わり。普段とは少し違う見方をしただけで、歴史を肌で感じられる旅になりました。
あなたも出掛けてみてはいかがでしょうか?
都留の歴史といえばここ!ミュージアム都留で情報収集
まず訪ねたのは、今年4月から入館料が無料になった「ミュージアム都留」。城下町・都留の歴史がギュッと詰まった博物館で、織物や松尾芭蕉関連資料のほか、八朔祭りの屋台や大きな飾り幕などが展示されています。先日、お話を伺った学芸員の福島さんに案内・解説をしていただきました。
織物に関連するものの展示は、第一展示室の奥の方に。かつて実際に使われていたという手動の機織り機や糸を紡ぐ糸車、織物をはじめとする都留の産業をまとめたパネルなどが展示されています。
都留の織物の歴史。いつ頃から始まったのですか?
福島さん:織物自体は古来から、郡内にありました。もともと郡内は、山間の土地が多くて稲作に向いている土地ではなかったので、代わりに織物や養蚕業をし、それを売ったお金で米などの食料や生活必需品を買うという地域だったんです。
ポイントとなったのは、江戸時代の初め頃。譜代大名の秋元氏が谷村藩主になったタイミングです(参照)。秋元氏が都留の前に治めていた領地が今の群馬県で、群馬の織物の技術を持ち込み、郡内の織物の技術を向上させた。そこには身分の差はなく、庶民だけではなく家臣やそこに仕える人にも織物を織らせるなど、本当に多くの人に広めたと言われています。
また、秋元氏は、郡内の織物をブランディングし、江戸や上方(京都・大阪)などに売り出していきました。この頃に郡内地域で織られていた絹織物は「郡内織(ぐんないおり)」と呼ばれ、人気を博し、江戸の呉服屋「越後屋(現・三越)」の支店が市内に置かれていたほどです。
どうして郡内織が人気だったのでしょうか?
福島さん:織り方を工夫し、色合いの光沢が玉虫の羽が反射しているようにみえる輸入品の「玉虫海黄」に似せた「織色郡内(おりいろぐんない)」と呼ばれる種類以外に「郡内縞(ぐんないじま)」・「郡内平(ぐんないひら)」などバリエーションに富んだ織物があったことが理由の一つかもしれません。
江戸時代の文学作品に登場するほどポピュラーになっていて、郡内織が町人の中で定着し、それを着ることが、ちょっと粋なおしゃれだったのかもしれません。まさに”ブランド”です。
江戸との距離も影響していたのでしょうか?
福島さん:そうですね、あまり遠いところでは、現代のように簡単には運べないですからね。谷村は、すぐ近くを甲州街道が通っていて、さらに富士山へ向かう街道(現・国道139号)の上にある町なので、江戸への交通の便がとても良かったと思います。
郡内織は、郡内の中でも特に都留で盛んだったのですか?
福島さん:昔は、今のような市の区切りはありませんよね。城下町である谷村は郡内では最も栄えていて商売や流行の中心でした。
ミュージアム都留の展示の中に「郡内縞物語」という映像資料があります。館内でも見られるし、スマートフォンで読み取って見ることもできるのですね(館内無料Wi-Fi有)!これは一体・・・?
福島さん:郡内織の中でも、縞模様の入ったものは「郡内縞(ぐんないじま)」と呼ばれました。江戸時代の中ごろには、江戸で縞模様の織物が流行していて、浮世絵にも描かれるほどの人気で、その様子をまとめた映像資料です。
郡内縞は、西陣などの高級織物と比べると値段が安いのですが、同じように地方で織られた絹織物の中では江戸などの大都市に住んでいる町人たちに人気が高く売れ行きがよかったため1、2%利益を載せて販売してもよいとされていました。(参照)
江戸時代以降はどうだったのでしょうか?
福島さん:郡内織は、基本的には一般市民のための織物だったのですが、将軍の布団の生地にも使われていて、本当に広く流通していたことが分かります。
明治時代になると、海外輸出も含めた市場拡大によって織物産業が飛躍的に発展します。郡内織の流れを汲む「甲斐絹(かいき)」として、大正~昭和初期にかけて大量に生産されました。甲斐絹は、国内の品評会を始め、ウィーン万国博覧会など海外でも高い評価を得ました。残念ながら、その後は戦争などによって衰退していきます。
しかし、戦後・昭和になると、甲斐絹の流れを汲んだ「甲州織(こうしゅうおり)」が誕生します。絹ではなく、合成繊維を用いた織物です。これが、いわゆる「ガチャマン景気(織機をガチャンと織れば万の金が儲かる)」の頃で、郡内のいたるところで織物業が営まれました。実は、ミュージアム都留ができる前、この場所は染物工場だったんですよ。
そして、ガチャマン景気の終わりと共に、市内の織物業は数を減らしていきました。
栄えたり衰退したりを繰り返してきたんですね。
福島さん:昔の姿そのままというのは難しいですよね。ただ、現在も市内にあるいくつかのメーカーが、織物で時代に合う商品を作っています。昔の技術や歴史を伝えたり、学んだり、大事にしていくことが大切だと思います。
かつての織物問屋の姿そのままに 都留市商家資料館
ここからは、福島さんに教えていただいた、市内にある織物ゆかりの場所へ。
先に訪ねたのは、ミュージアム都留から徒歩5分ほどの「都留市商家資料館」。ここは、大正5年〜10年にかけて建てられた建物で、都留市有形文化財に指定されています。かつては郡内最大手の絹織物問屋が営まれ、当時としては珍しい洋風の応接間などもあります。
注目は、資料館に入ってすぐ、横長の広い玄関。福島さんによりますと、
「ここに絹織物をずらっと並べて取引をしていたはず。生産者がここに甲斐絹を売りに来て、それをこの問屋が商人に売る。ここに番頭さんがいて、検品をしたり、後ろの机で帳簿をめくったりしていた姿が目に浮かびます」
商家資料館の館長・小林さん(73)にお話をお伺いしました。
「自分の実家も、養蚕や幡機屋(はたや)をやっていた。都留市の半分くらいは蚕に携わっていて、そのうちの8割以上が織物業だったんだよ。谷村の人は、そういう面で現金収入があり、我々が聞いている範囲では裕福だった。だから、八朔祭では豪華な屋台があって大名行列ができた。」
織物を手にしながら、当時のお話しをしていただきました。
穴場スポット!織物の神様を祀る「機神社(はたじんじゃ)」
最後に訪ねたのは、知る人ぞ知るゆかりの場所。都留ICを背に、宝バイパスを抜けて車を走らせること約10分。背の高い木々が生い茂る中、右側に突如現れた神社。
その名も「機神社」。織物の神様を祀る神社で、郡内ではここだけ。まだ機械織(きかいおり)がなかった頃は、織物の技の向上を願う女性たちが、各地から参詣に訪れたと言われています。
福島さんは、この場所にまつわる伝説を教えてくださいました。
「大昔、天から大きな幡(はた=布)が降ってきて大木にひっかかり、それを見つけた村人は話し合いの末、幡を祀る神社を建てた。それが機神社。この場所はそれ以前は湯津岩村と呼ばれていたが、大きな幡が降ってきたから”大幡”と呼ばれるようになり、この地方で織物が盛んになったと伝わる(参考資料:都留の民話)」
祠の周りには大木が並びます。取材スタッフは「この木に布がひっかかったのかな…」と思いを馳せていました。
▪️機神社へのアクセスはこちら
取材後記
都留の織物の歴史を紹介したい。スタッフのそんな思いから始まった今回の企画。普段何気なく通り過ぎている場所でも、歴史に思いを馳せると、新たな魅力が感じられました。ご協力くださったミュージアム都留の福島さん、商家資料館の小林さん、ありがとうございました!
また、今回取材を行ったミュージアム都留を訪ねてコードを読み込むと、都留で使える城下町ポイントをゲットすることができます。ぜひチェックしてくださいね!!