「自分の命がある限りは幡を続けたい」
有限会社リード・谷内正義さん
有限会社リード代表取締役 谷内正義さん
つるのルーツでは、都留市の市制70周年を記念して、過去2回に渡り都留の織物産業の話題をお伝えしてきました。
(※過去記事参照:市長インタビュー・織物の旅)
記念企画の最後となる今回は、現在も市内で営まれている織物工場・有限会社リードを取材。代表取締役の谷内正義さんは、バブル~バブル崩壊、メーカーの下請けから自社ブランドの立ち上げ、コロナ禍・・・酸いも甘いも経験してきたとのこと。現在も決して活況とは言えない織物の世界で、谷内さんが思い描く”これから”とは?お話を伺いました。
◆谷内正義さん◆
昭和22年生まれの77歳。都留市の三吉地区で生まれ育つ。両親が織物工場を営んでいたため、幼いころから織物に触れ、高校卒業後、同工場に勤務。40歳で独立し、有限会社リードを創業。シルク100%のネクタイの製造・販売を行う。創業時は問屋の下請けが中心だったが、現在では自社ブランド品も手がけている。
お寺以外ほとんどが幡
当たり前のように入った織物業界で取り組んだ”デジタル化”
のり:早速ですが、谷内さんが織物の世界に足を踏み入れたきっかけは?
自分が生まれる2〜3年前だから、今から80年くらい前かな。父が戦争に行って帰ってきて、それから織物工場を始めたんです。親に反抗したり自分で選んだりはできないから、自分は高校卒業した頃からずっと働いています。子どものころから手伝いをしていました。
当時この辺り(都留市三吉地区)は、お寺さん以外はほとんどが幡機屋と農業の兼業でした。幡機屋さんをしていない家はないくらい織物業が盛んだったんです。父の工場では、秋山村(現・上野原市)や富士吉田市の明見から、20人以上の女工さん、中学を卒業した子たちが住み込みで働いていて、工場は朝早くから夜遅くまで、寝る間も惜しんで稼働していました。
のり:都留の織物がまさに大盛況という状況だったのですね。その後、谷内さんは40歳の時に独立されたとのことですが、何か理由があったのですか?
父は技術者で、色々な新しいものを作っていたから、この道で生きていくには、自分も新しいものを作っていかなきゃなと思っていました。
その中で目を付けたのが、デジタル化。当時の日本ではとても珍しい、コンピューターがついている織機を導入しようと思ったんです。デザインをコンピューターグラフィックス(CG)で作り、ここはこの糸で、この色、このくらいの幅・・・などと信号をつけて、自動で織る。
昔は、紋紙という型紙を使って織物に模様をつけていたんだけど、仕事をすればするほど紋紙が増えて、体育館くらい大きな建物に保管していました。そうすると、出し入れも大変で、半日がかりで欲しい柄の紋紙を探してくるというような状況で。それじゃ人件費も合わないし、続けていくと大きな倉庫が必要。
そんなときに、この機械の存在を知って。8インチのフロッピー1枚に5000以上の紋紙が入るんですよ。これからはこの時代だ!これをしないと!と思って、独立したんです。独立前は座布団なども作っていたのですが、市場の先行きを考えて、ネクタイだけの生産に切り替えました。(8インチフロッピー、3.5インチフロッピーを経て、現在はフラッシュメモリー)
のり:デジタル化!作業効率が上がりそうなイメージです。
独立したときはまだバブルがはじける前だったこともあって、月に75,000本のネクタイを生産していました。紋紙を使っていたときよりは多く織れるけど、うちの工場だけでは間に合わず、うちの下請けの工場もフル稼働で。当時は月商で2,000万〜3,000万円ほどでした。
のり:デジタル化で、他にどんな変化がありましたか?
その当時は問屋さんやメーカーからの発注、常に100柄・200柄と送られてくるので、それに応えるのに必死でなかなかできなかったのですが、今は仕事のやり方を見直したことで、自社で気軽にデザインができるようになりました。出来上がりがイマイチだなと思えば、自分の手間だけで済むからもう一回作り直せばいいし、自分で何でもできればある程度は経費も抑えられるし。
昔は「織物工場は織るだけ」という考えで織物に対する収入、紋紙を作る業者は紋型代の収入があって、うちはどちらも自社でできるから両方とも収入になりました。今思うと、これが大きくて、織物だけだったら採算が取れなくなっていたと思います。
また、それ以前の機織り機よりも音が静かで、下請け工場では赤ちゃんを連れて働いていた社員がいたのですが、織機の音が赤ちゃんの子守歌代わりになっていたそうです(笑)。
バブル崩壊で多額の借金
苦労の末に辿り着いたのは”自社ブランドの立ち上げ”
のり:独立後も順風満帆・大忙し!といった印象ですが、これまでに大変だったことは?
外国産のものが大量に安く輸入されるようになって、取引先の問屋さんからは輸入品に合わせて値段を下げるように言われたんです。シルク100%のネクタイが、1本で80円〜90円。1万本織れば80万円〜90万円。だけどそんなこと、人件費などを考えたらできない。
さらに、当時の支払いは手形で、入金は半年先。それに加えて、バブルの崩壊で織物業界全体が厳しくなり、取引先が倒産したんです。納入したのに入金されることはなく・・・。結局、合計5,000万円ほどの借金を抱えました。金融機関もなかなか手を貸してくれず・・・死に物狂いで働いて、やっとの思いで返済しました。
のり:本当に大変でしたね・・・。それを機に何か変化はありましたか?
手形ではなく、現金で取引してくれるところに取引を限定するようにしました。この地域は手形ばかりで、うちと同じ思いをした同業者はたくさんいましたよ。でも、もうそういう時代じゃない。せっかく働いたものが、賃金がゼロになってしまう。ゼロになるどころか借金を背負う。それはもう無理だと思い、どんなに少なくなっても現金でやり取りするのが大事です。
また、産地(郡内地域)でね、問屋の下請けだけではなくて、自分たちもブランドを立ち上げようということで、当時の地場産業センターを中心に十何軒かの幡機屋で自社ブランドを始めました。
今うちの生産量は、当時の20分の1くらいです。今までは取引先から発注があったデザインをどんどん織るというのが主でしたが、今は「こういうものを作ってみようかな」と自分の頭の中をめぐらせたものを積極的に作るようになって、借金はないし、気が楽です。
あと、仲間たちと、「ネクタイ一万本祭り」という、郡内産のネクタイを集めて販売するイベントも始めました。平成7年から毎年やっています。コロナ禍で一時中止したこともあったのですが、楽しみにしてくれているお客さんの声もあって再開しました。
のり:コロナ禍というと、何か影響はありましたか?
コロナの間は、ほとんどのイベントが中止になったり、出社せずにリモートで働く人も多かったでしょう?だから、取引先からの仕事は全然なかったですね。
去年5月にコロナが、5類になった途端に一気に注文が増えて、1年分の仕事が2〜3カ月で来ちゃったんです。うちも断れないから、寝る間も惜しんでやっていたら、自分が体調を崩してしまって、やる気もなくなってしまった。このままじゃ仕事どころか体が持たないな、と思い、仕事のやり方を考え直しました。今はだんだん症状が良くなってきたので、取引先にも理解してもらいながら、できることからやっていこう、と考えてやっています。
織物は一生をかけての仕事
”自分だけのものづくり”を楽しみたい
のり:大変なことが続いてきたように感じるのですが、それでも谷内さんがネクタイを、織物を続けていらっしゃるのはなぜですか?
一生かけての仕事だから。今まで、この仕事しか、繊維しかやってきていないから、他の仕事ってできないんですよ。
それに、昔はちょっと苦しかったけど、今は楽しんでこの仕事をやっている。紋を作って、自分の作ったものが商品になるということ自体が楽しみなんですよ。今までは問屋さんだけのものづくりをしていたけど、自分だけのものづくりをしていきたいなって。
のり:これから作りたいのはどんなネクタイですか?
いっぱいある!ありすぎて!(笑)今は、日本の江戸小紋を主体に色々作っています。昔から日本の中にあったものをやった方が良いと思って、昔の着物などに使われていたデザインを取り入れて、アレンジして。
そういうネクタイを販売していると、外国の人も買っていきます。外国の有名なブランドの中には、日本の家紋を見てデザインされたと言われているものもありますよね。だから、もしかしたら、自分のデザインを真似たものが外国で作られるかもしれない。それで、日本の古き良きものを、と思いました。
また、山梨といえば武田信玄だから、仲間と一緒に武田氏の家紋や詩を入れたネクタイも作っています。
のり:素材にもこだわっていらっしゃるそうですね。
うちはシルク100%です。本物の繭から作られた質の良いシルク。でも、燃料費の高騰などの影響で値段が上がって困っています。去年の6月までは1kg6,000円くらいでしたが、今は12,000円。昔、オイルショックの時には20,000円を超えたこともあります。
のり:それでもシルクにこだわるのは、何か思いがあるのですか?
良いものを手ごろな値段で買ってほしいんですよ。今、どんどんネクタイを買う人が減っています。クールビズやスーパークールビズだと言われている中で、なんとかね、ネクタイをしている方に買っていただきたい。金額を安くして、できれば毎日違うネクタイをしてもらえたらいいなと思っているんです。
うちに来てくれるお客さんの中には、東京など県外からきてくれる人もいて、近くに出店してよという声もあるけど、交通費や場所代がかかるじゃない?そうすると、どうしても値上げしないといけなくなってしまうので、だからぜひ山梨に来てくださいと伝えています。
のり:谷内さんの熱意、伝わりました。最後に、この先こうしていきたいなど、考えていらっしゃることはありますか?
今77歳なので、とりあえず80歳までは続けていきたいと思っています。そのために毎日1時間ストレッチをして体力づくりにも取り組んでいます。
実は、跡を継ぎたいと声をかけてくれた人もいたけど、うちの織機が、創業からだから36年も経っているんです。部品も廃番になって手に入らなくて、直しようがないくらい劣化しているし、もっと高速で織れる機械も出てきています。ネクタイの市場自体も縮小しています。機械への投資と先行きを考えると、もったいないけど、難しいかなと思っています。
だから、自分の命がある限り、織機が動いている限りは、自分だけのものづくりを楽しみながら、続けていきたいです。
<取材後記>
取材に伺うと、快く出迎えて、穏やかに沢山のお話を聞かせてくださった谷内さん。ですが、織機を操作する際には、スッと真剣な表情に変わり、格好良かったです。
そんな谷内さんがこれまでに作ってきたネクタイは、問屋さんから発注されたものも含めて、なんと2万柄以上!さらに、その全てをどんな柄だったか記憶しているとのこと。あのときのあれが良かったな、あそこをもっとこうしてみたらどうだろう?と、挑戦を続けているそうです。
また、創業以来、谷内さんの工場は、基本的に夫婦二人で営んでこられました。現在は、谷内さんが織り、奥様が検品や商品管理をしていらっしゃいます。良いときも悪いときも、お二人で歩んでこられた36年間。少しでも長く、その時間が続くことを願っています。