徳川家御用達のお茶を運ぶビッグプロジェクト
「お茶壺道中」とは?
お茶壺道中とは?(全国的に)
そもそもお茶壺道中とはいったい何なのでしょうか?
江戸時代、幕府が将軍御用の宇治茶を茶壺に入れて江戸まで運ぶ行事のことを、通称「茶壺道中」、あるいは「宇治茶壺道中」といいます。その行列は、多い時には1000人にも及ぶ規模の大きいものにもなっていたようです。
幕府が宇治茶の上納を命じる「宇治採茶使」をはじめて派遣したのは慶長18年(西暦1613年)とされ、制度化されるのは寛永10年(西暦1633年)のことです。
茶壺道中はとても権威の高いもので、茶壺が通行する際には、大名すらも駕籠を降りなければならず、人々に緊張が走る行事でした。
都留でお茶壺道中が行われていた理由とは?
そんなお茶壺道中ですが、都留とどのようなかかわりがあるのでしょうか。
まず、お茶を上質な状態に保ったまま江戸へと運ぶためには、温度管理が必要でした。夏の暑さにさらしてしまうと、お茶の味が変質してしまうからです。
そこで、お茶を保管する場所として、夏でも比較的冷涼な、甲州谷村、つまり現在の都留市が選ばれたのです。都留市に運ばれた茶壺は、勝山城に保管されました。都留を経由するルートは、元禄2年(西暦1689年)まで、50年ほど使われることとなりました。
さらに、富士山に力があると信じ、富士山に近い谷村が選ばれたと信じている人々もいました。実際には、勝山城の一室に保存されていたことが事実なのですが、谷村には富士溶岩でできた風穴があり、そこの涼しさと富士の力によって茶壺が保管されていたと信じた人々も多く、あの松本清張もその説を信じ、自身の小説『西海道談綺』に記したそうです。
まとめると、富士の冷気、秋元の政治力、交通の要所という要因から、都留がお茶の保存場所として選ばれました。
現在は「都留産業まつり」と同時開催!
毎年10月の最終日曜日に、都留市では都留産業まつりが開催されます。都留市の上谷にある金毘羅神社から、産業まつりのメイン会場となる、谷村第一小学校校庭にわたって、お茶壺道中を再現した行列が練り歩きます。行列がメイン会場に入場したあとは、行列で運んだお茶を殿様にわたす、『受け渡しの儀』がおこなわれます。また、当時の徳川将軍御用達の味を忠実に再現した抹茶の販売がおこなわれた年もあります。お茶壺道中と都留のかかわりの歴史は、今も市民に大切にされ続けています。
豆知識
このわらべうたは、田植えがどれだけ忙しくても、百姓たちもお茶壺道中の通過の際には手を止めなければならないため、この茶壺道中を風刺した歌ともいわれているそうです。