秋の大感謝祭 八朔祭と城下町の関係
都留を盛り上げてくれた大名、秋元氏への感謝と豊作を願う祭り!
都留市では毎年9月1日に八朔祭が行われます。これは都留市内にある四日市場の生出神社の例祭です。生出神社は農業の神様を祀る神社であるため、八朔祭りは五穀豊穣を願う農民たちの祭りだったと言われています。
八朔祭は、本祭りとして神輿の巡行と大名行列、附祭りとして、山車・ 屋台の巡行が行われ、その伝統は今でも続いています。
もともと社名は「諏訪神社」でしたが、秋元富朝公 秋元氏が世継ぎの誕生を祈願し、それが叶ったことから「生まれ出ずる」の意味で「生出神社」に改めたといわれています。
※富朝には男子が生まれず、養子を迎えており、誤りでした(7/7追記)
八朔祭は、こうした秋元氏との関係性や、善行に対して農民が感謝の気持ちを持って行ったとも言われています。
大名行列に使用する道具のルーツは、秋元氏の置き土産!
かつて都留を治めていた秋元氏は川越藩に転封(てんぽう)しました。転封とは、江戸時代に、幕府の命令を受けて大名がその領地を他の場所に移動することを意味します。その際、秋元氏は参勤交代(江戸時代、大名は一定期間交代で自分の領地から江戸へ赴く必要がありました)のときに用いた衣装や道具を下天神町に残していったという口伝が伝わります。
大名行列に使用する道具はバラエティ豊か。現在ではふるさと時代祭りで大名行列を再現しています。大規模な大名行列が行われることや屋台の巡行にあり、毎年多くの人が訪れています。出発の合図や行列が来たことを知らせる鳴り物から、みんなで手分けして殿様の衣装や武器、甲冑を運びました。殿様を守るために日傘やすぐに休めるように椅子、草履が殿様の後ろにつきます。
そもそも、八朔とは?
八朔という言葉には、8月の朔日(ついたち)という意味があります。江戸時代まで使われていた暦は旧暦、現在私たちが使っている暦は新暦といいますが、この旧暦の8月1日を指して八朔と呼んでいます。旧暦の8月は新暦でいうと8月下旬から9月下旬までの期間にあたります。したがって、八朔は、農家の人々が田植えを終えて収穫までの間息をつくことができる時期にあたります。そのため、この期間に豊作を願って様々な祭りや行事が行われました。
大名行列発祥の地 「にわか」も繰り出すほど大賑わい!
八朔祭りが始められた年代は詳しくはわかっていませんが、大名行列や屋台の巡行が行われるようになったのは江戸時代以降と言われています。18世紀に開始された大名行列がその発祥と言われています。そして現在の祭りの形態になったのは19世紀前半であったと考えられています。行列は、四日市神楽が先頭となり、お殿様やお姫様、奴(家来のこと)、鉄砲隊、槍組など、人々は威厳高く迫力のある行列を作りました。10万石(2000〜3000人)の格式があると口承があるほどです。
(7/7追記)
八朔祭りの屋台には飾幕と呼ばれる豪華な絵柄や模様の幕がかけられていますが、その下絵は当時最も有名だった葛飾北斎などの絵師によって描かれており、都留が経済的に大変豊かな街だったことを物語っています。
昭和初期には、市民で行う大名行列以外にもサーカス類の見世物が来ていた時代もありました。
それ以前の明治時代にも 「にわか」と言って、お祭りを盛り 上げるためにに仮装した人々が行列を作りました。
(7/7追記)