芭蕉が歩いた都留—句碑が語る、城下町の記憶

はじめに—歩くと見えてくる芭蕉の足跡
2025年11月、山梨県都留市で開催された「駅からハイキング&ウォーキング」では、松尾芭蕉の句碑を巡るコースが注目を集めました。
イベントは終了しましたが、句碑は今もまちのあちこちに静かに佇み、訪れる人を迎えています。今回は、実際にそのルートを歩きながら、都留市内に点在する芭蕉ゆかりの句碑とその背景にある史料・伝承を取材しました。
石に刻まれた言葉—それは、ただの句碑ではなく、旅の痕跡であり、まちの記憶です。
都留との関わりが特に深い句碑とその舞台を紹介します。
芭蕉と都留市—「招かれて滞在した」
芭蕉が都留市(当時の谷村)に滞在したのは、今から約340年前の江戸時代前期、天和年間(1683年頃)のことです。
江戸の大火を機に、芭蕉は秋元家家臣・高山伝右衛門(たかやま・でんえもん/俳号麋塒(びじ))の招きで谷村に滞在しました。
滞在期間には諸説があり、断定はできませんが、「谷村に滞在した」という事実は史料として確かとされています。
芭蕉が滞在した当時、谷村は秋元家が治める城下町として大変栄えていた時代です。
特に「郡内織」と呼ばれる織物が盛んで江戸へ出荷されるほど質が高く、また徳川将軍家御用のお茶を京都の宇治から運ぶ行列「お茶壺道中」が谷村を通過し、茶壺を一時的に勝山城跡(お城山)に保管し、熟成させたという伝承が残るほど文化が花開いていました。
学芸員福島さんは、芭蕉の谷村滞在について、難を逃れた場所というだけでなく
「この土地(谷村)での滞在が、その後の芭蕉の旅に影響を与えたのではないか」
と語ります。
芭蕉の句碑を訪ねて—都留ゆかりの場所
ここでは、学芸員福島さんが「都留市と結びつきが濃い」と話す場所を中心に紹介します。
1|田原の滝周辺 — 音と気配で読む句

・句:勢ひあり 氷消えては 瀧津魚
(いきおいあり こおりきえては たきつうお)
・意味:冬の氷柱が消え、富士の雪解けで水量を増した滝。澄んだ流れの中で魚が勢いよく泳ぐ、春の生命力や躍動感を詠んだ句です。

谷村滞在中に詠まれた句と伝わり、この 田原の滝で読まれた可能性が高いとされています。
現在の句碑は昭和26年(1951年)に建立され、山梨県内で著名な俳人である飯田蛇笏(いいだだこつ)が揮亳したものです。
昭和期の除幕記録も残されており、芭蕉と都留を語る際に欠かせない場所です。
2| 楽山公園 — “推敲”が見える句碑

・句: 馬ぼくぼく 吾を絵に見る 夏野かな
(うまぼくぼく われをえにみん なつのかな)
・意味:炎暑の夏野を馬がゆっくり進む中、旅する自分をまるで絵画の登場人物のように客観視している句。旅の孤独と余韻が漂います。

都留のまちを見下ろす高台にある 楽山公園 には、「芭蕉来峡300年記念句碑」があります。
この句は、刻まれた句と初案に差がある句碑として知られています。
ここでは、完成した作品ではなく、芭蕉が言葉を磨く途中の思考を想像しながら読む楽しみがあります。
3|桃林軒跡 — 再現された「雰囲気の場所」

・句: 深川の松も泣くらむ 雪の梅
(ふかがわのまつもなからん ゆきのうめ)
・意味: 谷村の雪景色を眺めながら、江戸・深川に残してきた弟子たちを思い、その寂しさに寄り添う一句。

都留市中央にある 桃林軒 は、芭蕉が谷村で滞在したとされる庵(いおり)があったとされる場所です。この庵は、高山伝右衛門の屋敷の近くにあり、市民の要望などを受けて、当時の庵を想定して再現されています。
4|つるの子公園 — 言葉のリレーが行われた場所

・句:胡艸垣穂に胡瓜もむ屋かな (糜塒)/笠おもしろや卯の実むらさめ (一昌)/ちるほたる沓にさくらを拂ふらむ (芭蕉)
・意味:夏の生活の風景からはじまり、雨に濡れる旅人へ、そして蛍と桜が舞う幽玄の世界へと移ろっていく—季節と情景を言葉でつなぐ、小さな“旅”のような連句。

先ほど紹介した桃林軒では、師である芭蕉と弟子の麋塒、そして一昌の3人が共に連句(合作の俳諧)を巻いた記録が残されています。
つるの子公園句碑には、その連句の一部が刻まれた連歌の伝承が残る場所です。
師と弟子の間で交わされた俳句のやり取りは、当時の谷村に俳諧文化が根付いていた証しでもあります。
5| 芭蕉 月待ちの湯— 地名と句が結びつく地点

・句: 名月の夜やさぞかしの宝池山
(めいげつのよや さぞかしの ほうちざん)
・意味:静かな山間に佇みながら、名月の美しさを想像した句。
※「宝池山(ほうちざん)」は、都留市戸沢地区の正蓮寺の山号にあたります。

温泉施設 「芭蕉月待ちの湯」の露天風呂敷地内には、芭蕉が戸沢の宝池山正蓮寺を訪れた際に詠んだと伝えられる句碑があります。
この句は天和3年(1683年)に谷村に滞在した際に読まれた可能性が極めて高いとされています。静かな山間の温泉に浸りながら、芭蕉が眺めたであろう月を思うことができる、唯一の句碑です。
※内部施設でのみ閲覧可能な刻文のため、マナーを守ってご覧ください。
句碑が語る—まちの記憶
都留市内に残る句碑すべてが、芭蕉が実際にその場所で読んだ句ばかりとは限りません。
江戸時代中に建てられたものもあれば、文化振興の目的で後世に建てられたものもあります。
しかし、それらは単なる石碑ではなく、都留というまちが大切にしてきた歴史と文化の積層、つまり「人の記憶を刻んでいる」存在だと言えるでしょう。
芭蕉が滞在した当時、谷村は藩主・秋元家のもとで栄え、郡内織の生産や人の往来によって文化的な熱気に満ちた城下町でした。
福島さんはこう語ります。
「芭蕉が谷村に滞在し、俳句を通じた交流が行われたおかげで、この地域に俳句文化が広がるきっかけになったのではないでしょうか」
その文化は現代にも引き継がれており、都留市では毎年 「都留市ふれあい全国俳句大会」が開催され、文学を愛する人々の交流の場となっています。
句碑をたどることは、芭蕉の足跡を追うだけでなく、文化を尊び、訪れた旅人を温かく迎え入れた都留の城下町の記憶に触れる旅となります。
おわりに—石は言葉、言葉はまちの記憶
都留市には、松尾芭蕉が残した言葉が今も静かに息づいています。
深川の弟子たちを思い、霊峰富士の威容に感銘を受けた俳聖の心情は、句碑という形で私たちに語りかけてくれます。
「都留を訪れた経験が、その後の芭蕉の旅の大きなきっかけとなったのではないか」という福島さんの言葉に思いを馳せれば、句碑めぐりは一層深い意味を持ちます。
都留をゆっくりと歩き、文学と歴史に触れ、その記憶に触れてみてください。
<鑑賞時のお願い>
市内の句碑には、私有地または施設管理下にあるものが含まれています。
鑑賞の際は、以下の点にご協力ください。
・立ち入りおよび撮影は、現地の表示や管理者の指示に従ってください。
・刻文は風化などにより判読しづらい場合がありますので、ご了承ください。













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