明治40年、都留を襲った大水害|都留を襲った山崩れと洪水

地面の下から出てきた、大量の陶器
平成19年(2007年)、宝地区の大幡川沿いで、道路整備に伴う試掘調査が行われました。
そこで見つかったのは、多数の陶器。茶碗や皿といった、ごく普通の生活用品です。

当初は、昔の農作業などで割れた食器をまとめて埋めたものだろうと考えられていました。しかし調査を進めると、不思議なことが分かってきます。陶器は広い範囲にわたって、同じ高さの地層にまとまって埋まっていたのです。誰かが捨てたにしては、範囲が広すぎる。しかも、土の堆積の仕方は、河川の氾濫によるものと一致していました。
この陶器はどこから来たのか。
その答えにあたるのが、大幡川の氾濫です。
今から100年以上前には山梨県内のいたるところで毎年のように水害が発生していました。
この夏、ミュージアム都留で企画展「明治40年の大水害」が開催されます。会場では、この陶器の実物を見ることができます。
なぜ山崩れが起きたのか。そして、この災害は人々の暮らしをどのように変えたのか。企画展の展示資料や学芸員への取材をもとに、たどってみます。
半年分の雨が、5〜6日で降った
明治40年(1907年)8月、山梨県は未曾有の豪雨に見舞われました。
当時は2つの台風(低気圧)が同時に接近し、都留市内では5〜6日間の間に、1年間の降水量の半分に相当する猛烈な雨が降り続いたといいます。山中湖では1週間弱で600ミリを超える降水量が記録されるなど、県内各地で川の水位が上昇しました。
都留市内を流れる朝日川や大幡川も氾濫し、市内各地で被害が発生しました。道路や橋、田畑が流され、家屋も大きな被害を受けています。

※現在の朝日川の様子
冒頭で紹介した宝地区の陶器も、この氾濫によって運ばれた土砂の中に埋まっていたものでした。学芸員の三浦さんによると、これらは明治40年の大水害によって流された民家の生活用品である可能性が高いと考えられているそうです。

※現在の大幡川の様子
つまりあの陶器は、120年近く前、氾濫した川に流されたどこかの家の食卓の跡かもしれないのです。
都留で最も多かった被害は「山崩れ」だった
「大水害」と聞くと、川があふれて家や田畑が流される洪水を思い浮かべます。
しかし、都留で特に深刻だったのは山崩れによる被害でした。
企画展でも紹介される『山梨県水害史』には、被害の状況が詳しく記録されています。それによると、南都留郡では山崩れによる死亡者が非常に多かったことが分かります。多くの人が土砂に巻き込まれ、家屋ごと押しつぶされる「圧死」によって命を落としました。
都留は山に囲まれた地形です。谷の低い場所を川が流れているため、大雨になると下からは洪水、上からは山崩れという二重の危険にさらされます。こうした地形的な特徴が、被害を大きくした要因のひとつだったと考えられています。
あなたの住む地区では、何が起きていたのか
同じ都留市内でも、地域によって被害の特徴は異なっていました。
盛里地区では、朝日川の氾濫による洪水被害が大きかったことが記録されています。田畑が流されただけでなく、当時の尋常小学校の校舎も流失しました。校舎を失った子どもたちは、地域のお寺などを仮校舎として授業を続けたといいます。
一方、宝地区や禾生地区では山崩れによる被害が深刻でした。当時の新聞には、禾生地区で一家が山崩れに巻き込まれた事例なども記録されており、土砂災害による被害の大きさがうかがえます。
洪水の地区と、山崩れの地区。同じ災害でも、住む場所によって経験はまったく違うものでした。

企画展には、当時撮影された古写真や、被災後の対応を記録した村の行政文書も展示されています。会場では、自分の暮らす地区や、通い慣れた場所が当時どうなっていたのか、探しながら見てみてください。
なぜ山崩れは起きたのか ─「織物のまち・都留」の裏側で
なぜ、これほど多くの山崩れが発生したのでしょうか。
その背景のひとつに、当時の都留を支えた織物産業があります。
明治時代の都留では、郡内織物が地域の重要な産業でした。繭から糸を取るためには大量のお湯が必要で、その燃料として薪が使われていました。
さらに、家庭での炊事や暖房など、暮らしの中でも木材は欠かせない存在でした。ガスや電気が普及していない時代、山の木は産業と生活を支える重要な資源でした。
一方で、当時の山梨県では多くの山林が「御料林(ごりょうりん)」として管理され、自由に利用できる山は限られていました。その結果、利用できる山林に伐採が集中し、各地で山が荒れていったといわれています。
実は明治20年代の時点で、山林伐採による土砂災害の危険性はすでに指摘されていました。それでも根本的な対策が進まないまま年月が過ぎ、荒れた山に明治40年の豪雨が襲いかかりました。

企画展では、当時の山崩れの写真も展示されています。木がほとんど生えていない「はげ山」。「織物のまち」として発展した都留の歴史が、山の姿をどう変えていたのか─写真を前にすると、その関係が実感を持って見えてきます。
水害が変えた人々の暮らし
災害は被害が発生した時だけで終わりではありません。

村の議事録には、堤防や橋、道路の復旧について大正時代になっても議論が続いていた記録が残っています。盛里村では、復旧費用の自己負担額だけで村の年間税収を超えていたといいます。住民たちは「義務人足」として復旧作業に参加し、村全体で少しずつ生活基盤を立て直していきました。

また、災害によって家や田畑を失った人々の中には、北海道へ移住する人もいました。
宝村からは約30世帯が移住しており、これは当時の山梨県内でも3番目に多い人数だったといいます。
一つの災害が、住み慣れた土地を離れるという大きな決断につながっていたのです。
会場で、120年前の都留に触れる
明治40年の大水害の発生から、来年(2027年)で120年が経ちます。
現在の都留では、当時のような大規模な水害を経験した人はいません。しかし近年は、全国各地で短時間の集中豪雨による被害が相次いでいます。
三浦さんは、こう話します。
「防災の第一歩は、その土地で何が起こる可能性があるのかを知ること」
防災グッズを備えることも大切ですが、自分たちが暮らす地域にどのような災害の歴史があるのかを知ることも、防災につながります。
その手がかりとなるのが、今回の企画展です。明治40年の大水害では多くの家屋や記録そのものが失われており、当時の様子を伝える資料は限られています。ここで紹介されている資料は、平成19年(2007)の発掘調査による陶器の発見や、その後の古写真の収集活動を経て、長年かけて少しずつ集められてきたものです。
その歴史を知ることは、これからの豪雨災害に備えるための大切な手がかりになるはずです。

観覧は無料。夏休み期間とも重なるので、お子さんと一緒に「都留で昔、こんなことがあったんだよ」と話しながら見るのもおすすめです。
そして会期最終日の9月6日(日)には、三浦さんによる展示解説「ギャラリートーク」が開かれます。この記事で紹介した陶器や写真の話を、調査に関わった学芸員本人の解説で聞ける機会です。
企画展「明治40年の大水害」
会期: 令和8年7月18日(土)〜9月6日(日)
会場: 1都留市博物館「ミュージアム都留」第二展示室
時間: 9:00〜16:30(最終入館16:00)
休館日: 毎週月曜、祝日の翌日、第3火曜日
観覧料: 無料
ギャラリートーク
日時: 9月6日(日)14時~14時30分/学芸員による展示解説あり
おわりに
120年前、都留では洪水だけでなく、山崩れによって多くの命が失われました。
地面の下から見つかった陶器、はげ山の写真、大正時代まで続いた復旧の記録。どれも、数字だけでは伝わらない当時の人々の暮らしと被災の実態を伝えてくれる資料です。
過去の災害を振り返ることは、昔話を知るためだけではありません。都留で暮らす私たちが、この地域の特徴や災害のリスクを知り、未来の防災について考えるきっかけになります。
▼企画展の様子はこちら













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災害忘れた頃やって来るの格言があるように日常から命守る避難を家族みんなで話し合い行動しましょう
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