城下町発掘ニュース特集 ②

甦る当時の学校風景、尾県郷土資料館に行ってきた!

Written bykei・田中・ゆうせい

この記事は都留興譲館高校の生徒が書いています!

この記事は都留興譲館高校の生徒が書いています! 今回の記事は都留興譲館高校・電子工学科の生徒が調べてまとめました。

都留興譲館高校では、毎年3年生が課題実習で地元企業の仕事体験をしています。今年はつるのルーツを運営する都留市内のIT企業、C-table株式会社のWebライターを体験しました。

今回は、都留市の学校教育の歴史について詳しく知れると聞き、「尾県郷土資料館」に高校生がインタビューにいきました。

生徒が尾県学校の卒業生である館長に施設の見どころや、現在との学校生活の違いを聞いてきました!

尾県郷土資料館って?

尾県郷土資料館って? 明治11(1878)年に開校した藤村式建築と呼ばれる小学校で、郡内ではここが唯一の藤村式建築物でした。
すでに廃校となっていた校舎の復元工事が昭和48(1973)年に行われ、昭和50(1975)年には山梨県の文化財に指定されました。

その後は昭和61(1986)年に、学校に関する資料を集めた郷土資料館として開館しました。
館内には、明治時代の教員室、教室、裁縫室が復元されているほか、明治から昭和までの教育、民俗に関する貴重な資料約2000点が展示されています。

資料館の見どころは?

資料館の見どころは? 開校当時の教室が再現されていたり、当時の教科書が展示してあり、明治時代にどのように授業が行われていたのかわかります。
当時教室は、1・2年生と3・4年生が一緒に使用していたそうです。

館内に展示されている「根津ピアノ」は、東武鉄道の創始者であり「鉄道王」根津嘉一郎(山梨市出身)が山梨県内の小学校に約200台送ったもののうちの1台です。現存しているのは十数台と言われる中、尾県郷土資料館にあるものは、調律され現在でも指弾でき、当時の音色を奏でることができます。

【明治時代】尾県学校開校当時授業の内容は何を勉強していたのか?

【明治時代】尾県学校開校当時授業の内容は何を勉強していたのか? 当時の授業では、読み書きそろばんが中心で、復唱教育も取り入れられていたそうです。

また、現在は学年の分け方が1年生から6年生ですが、当時は8級から1級という分け方で、1年生は8級からスタートしました。進級する際成績が良くないと落第することもあったそうです。
今の小学校には落第というシステムがないので当時の小学校がそこまで厳しかったこということにとても驚きました。
また、教師がタバコを吸いながら授業を行っており自分のたばこがなくなると生徒に買いに行かせる、という今からしたら衝撃的な授業風景もあったそうです。


ちなみに、館長が小学生だった昭和18年ごろには、授業内容や時間割りは現代とあまり変わらなかったそうです。しかし、週休2日制が導入される前は業務や授業を土曜日にも行っていたため、土曜授業があったそうです。土曜日は午後から授業が休みなので「半ドン」と言っていたそうです。
現代との違いは、プールが学校になかったため、桂川で泳いだそうです。

【明治時代】昔と現在で時間割は違ったのか?

【明治時代】昔と現在で時間割は違ったのか? 明治11年頃は朝8時から昼の11時までの午前中の3時間授業をし、午後は昼休みを挟み1時から3時までの2時間という違いがあったそうです。午前中は読物、口授、書取、作文などの国語系統の授業を行い、午後は算術、習字、画学、そろばんを学ぶのが一般的だったそうです。

ちなみに、館長が通っていた時代は今と同じ6時間授業でしたが、読み書きそろばんが重視された時代で、習字やそろばんの時間があったそうです。また、今で言う道徳の時間は「修身」という時間だったようです。

【昭和時代】昔は都留市内に小学校はいくつあったのか?

【昭和時代】昔は都留市内に小学校はいくつあったのか? 10の小学校があり、さらに分校もあったため今よりは多かったそうです。朝日、与縄、平栗、法能、鹿留地域にも学校があったそうです。

館長が通っていた昭和21年には、禾生の小学校が全焼してしまうという出来事がありました。現在と違い校舎は木造建築だったため、火事の規模が大きいと推し量れます。
昭和16年ごろ、小学校から国民学校へと教育体制が変わり3つの学校が統合されたため、尾県学校から禾生の学校に移って勉強していたそうです。そんな中の出来事だったので、道具なども全焼してしまい、結局尾県学校に戻って学校生活を過ごしたそうです。当時周辺の学校数は田野倉と小形山を合わせて3校でした。そのため、禾生の国民学校に通っていた児童は、田野倉と小形山に分散したり、現在の禾生の農協が昔は役場だったため、役場やお寺で授業を受けたそうです。

【昭和時代】戦後の昼食はどのようなものだったのか?

館長が通っていた終戦直後は給食というものがなかったそうです。
自分の家から弁当を持ってきて食べていたが満腹にならない日が多かったと話していました。弁当の中身は「おはん飯」と言って、米と麦が半分ずつになったご飯や、お米を大根でかさ増ししたそうです(白くて見分けがつかないため)。また、とうもろこしを粉にして練ったものや糖分が貴重だったのでサツマイモがよく食べられていたそうです。当時はお米が貴重でほとんど食べることがなかったそうです。
また、弁当がたまに盗まれることがあったそうです。

また、当時は農繁休業という期間が1週間あり、学校の授業はやらずに家庭の農作業や蚕を手伝うための休暇などの時間に家庭の手伝いをやっていたそうです。終戦直後は当時食べられる物が少なく、小学生も高学年は労働力と見做されていたので学校の時間よりも畑作業の時間の方が大切にされていました。
家庭の手伝いに限らず、近所の人の畑も手伝いましたが、いざ手伝いに行くことになっても、お家の人が貴重な農耕具を「子供は道具を壊すから」という理由で貸してもらえず、家から道具を持ち出すのも一苦労だったそうです。

【昭和時代】昔はどのようにように登校していたのか?

館長が小学生だった当時は、下駄を履いて徒歩で登校していたそうです。
また、たびも履かず素足で下駄を履く児童や、そもそも下駄がなくわら草履や裸足で歩く児童もいたそうです。
遊びながら帰る生徒は桂川の落合橋の鉄骨部分や線路を渡っていたので、先生に怒られるということもあったそうです。


前述の通り、火事の前で学区が統合され、登校距離が長くなった田野倉に住んでいた児童は電車を利用し禾生の学校に通っていました。

感想

田中:今回インタビューを初めて行いとても大変でしたが、当時の小学校の風景や児童の生活について知ることができてとてもよかったです。

kei:今回尾県山の館長さんにインタビューをしてみて、インタビューの難しさを実感することができました。そして当時の学校の様子について学ぶことができました。

ゆうせい:インタビュー自体が久しぶりだったため、少し不安な部分があったのですが、多くの事を知れて素晴らしい体験ができたと感じました。今回、ご協力頂いた館長さんに感謝を申し上げます。

尾県郷土資料館へのアクセス

記事をシェアしよう!

  • Pintarest