城下町発掘ニュース特集 ②

衝撃!!この町に競馬場があったのか!?
谷村競馬場の歴史

Written bykei・田中・ゆうせい

この記事は都留興譲館高校の生徒が書いています!

この記事は都留興譲館高校の生徒が書いています! 今回の記事は興譲館高校・電子工学科の生徒が調べてまとめました。

都留興譲館高校では、毎年3年生が課題実習で地元企業の仕事体験をしています。
今年はつるのルーツを運営する都留市内のIT企業、C-table株式会社のWebライターを体験しました。

今回は、現在の都留文科大学の場所に競馬場があったはなし「谷村競馬場」について紹介します。

この競馬場は冬場にはスキーの練習場のひとつとして使う人々もいました。「谷村スキークラブ」に関する記事もぜひ読んでみてください。

谷村競馬場開設について

谷村競馬場開設について みなさんは、昔は現在の都留文科大学の場所に競馬場があったことを知っていましたか?一体どうやって作られたのでしょう?

大正13年(1924)に都留市の楽山一帯に7人(中谷茂、石井金太郎、槙田吉一郎、奥脇利良、中込実、都倉亀吉、小野田重成)で谷村競馬場を建設しました。建設しているときには、材料の納期が近くなったときに、仲間内で喧嘩が起きたりしたが、中込実・重成両氏が仲に立ち和解をしたことで、都倉氏が金五百円を出し仲直りしました。
競馬場建設の工事は丸太を切り出したり、それを馬に運ばせたりして完成させました。

全国的に広まった競馬の背景には政府の思惑があった

全国的に広まった競馬の背景には政府の思惑があった そもそも、競馬が全国的に広まった理由は何なのでしょうか?

大正12年(1923)4月、海外に負けない強い馬を育てたいという考えのもと、競馬法が成立されたようです。
この法律により、現在は解散している競馬倶楽部という法人組織は、当時禁じられていた勝馬投票券を使って、競馬を開催できるようになりました。禁止されていた勝馬投票券の復活、という政府の考えの裏には、競馬関係者の請願や、富国強兵を目指していた陸軍の要求があったそうです。政府は馬を盛んに生み出す策として競馬に目をつけました。不足していた馬の民間保有のために、競馬の振興に力を入れることに目をつけたのです。

現代ではお馴染みの競馬にこんな歴史があったとは驚きですね!


人々が楽しんだ様子とその後

人々が楽しんだ様子とその後 楽山一帯(現在の都留文科大学の場所)は最初は荒れ果てた桑畑でしたが、競馬場が作られると多くの老人若人が集まり劇的に変わっていきました。

この賑わいに目をつけた各地の商売人が谷村に商売をするために乗り込んできたほどです。競馬場にあった露天商では酒、ビール、さかな等が売られており、賑わっていました。馬券売上は5万(今だと約2億円)となり、「不況の影は見えない」と主催者は喜んで言っていたそうです。競馬場は毎年春秋2回、数日間開催されておりました。

ですが昭和8年に廃止されました。なぜ廃止されてしまったのか、分からなかったので調べていきたいです。

調査を終えて高校生はどう思った?

kei:今回の記事作成して、都留には昔競馬場があったことを知りましたが、調べてみて、競馬場を作るにあたっての背景について知ることができた。発展があまりなかったのはなぜなのか??この学習を通して調べ学習の大変さ、難しさを知ることができた。

田中:今回記事作成にむけて昔都留に競馬場があったことを調べたのですが、私は昔都留に競馬場があったことを知らなかったので、今回このように自分自身で調べ、競馬場のことを知ることができてとても良かったです。

ゆうせい:記事作成にあたって、調べ学習の時に気を付けることを学んだりと自身の糧にすることができました。今回調べたことは初耳な部分がとても多いので皆さんにも知ってもらったら幸いです。

都留市史や昔の写真を見ながら調査しました

都留市史や昔の写真を見ながら調査しました 実習では、Webライティングの仕事を学んだり、取材の練習をしたりしました。

都留の歴史の調査は都留市史を読んだり、昔の写真を調べたりしながら調べていきました。

また、市内のとある場所へインタビュー取材も行いました!
次回はインタビューの様子をお届けします。

〈写真提供:都留文科大学地域交流研究センター・ミュージアム都留〉

記事をシェアしよう!

  • Pintarest